仮題『浮いた熱の中』冒頭 

マスクをしていると視界がかすむのは吐く息のぬくもりで眼鏡のレンズがにごるからで、視界がかすむとなんだか息苦しくなるような気がして、マスクを下あごまで下げると、いつも空気ってこんなにも冷えていたんだっけ、となる、この時期、外にいると。

朝からくもっているせいで今が何時かよくわからない。いや、時計を見ればわかるんだけど、感覚が理解してくれない。十一時? なんで? 小田原城天守閣から見た景色、南伊豆の方の空は、あんなにもはっきりとピンクがかっているのに。それでまたよくわからなくなった。防寒しすぎたせいで寒いのか暑いのかもよくわからなくて、頭の中は世界中のどこよりもぼんやりとしていた。それはテレビで見た南国の愛に似ていた。テレビで見た南国の愛は、いつもおだやかで、のんびりとしていた。だから天守閣の中ではみんなに迷惑をかけていたとおもう。たぶんそうだ。でも、あの時も今もぜんぜん気にしてない。南国の愛を急がせることはだれにもできないし、周囲の人たちだってほんとうはそれをのぞんでいないのだ。靴下が厚手なせいで階段をすべって踏みはずしそうになった――あれ? 靴って脱いでたんだっけ? あれは犬山城の話? まぁいっか――太い木製の手すりをおもわずにぎりしめた。よわい握力だったけど、その時はそれが限界値で、最高だった。ふだん、何かをおもいきりにぎりしめることってそんなにない、ってこともないけど、風邪をひいていれば手に力を入れづらいのは道理で、ほらごらんとおりです、かるくしりもちをついて、にぶい痛みはあったけれども生地のあつさにすくわれたか、にぶさは一度も牙を見せることなくにぶいままじりじりと引っこんでしまった。それは頭のない蛇の後退のようで、そんなものを見たことがあるのか問われれば、もちろんないけど、夢の中のイメージやあいまいな映画の記憶から引っ張ってこられるのは自前の自由な思考のおかげです、ってだれに自慢するでもなく得意になるのは酔っぱらいのようで質が悪いでしょう、そそ、酔ってりゃあだれだってタチが悪かろうて、と赤ら顔にからまれたのはずっとずっと前のことだったんです。からまれたと言っても直接的な暴力を振るわれたわけではなく、むしろ反射的に顔面を殴ってしまったことをかんがみれば被害者はむこうだったのかもしれないが、すでに無効となった事項をいつまでも引きずれないのをいくらむごいと非難されようとも自己責任のひとことで、あらゆる自己と事故を接着するヤクザのやり口で、どうにか切り抜けてしまった旧い記憶はすべて嘘っぱちのドンパチさわぎかもしれないとの可能性を示唆されたのはまだ最近の出来事で、それ以降何かしらの「身辺調査」が行われているはずだけど、結果の報告もかしこまった集金の呼び声も聞くことはない。それそうと。

吐く息でかすむ視界はふくらんだりしぼんだり、象の心臓のようだ、とおもっていた。歩いていた。天守閣から広場へとつながる石階段は途中、するどく折れる箇所があり、ちかくには桜の木が幾本か植わっている。しかしあいにくに冬とあっては景色に可憐なうすべに色を散らすこともかなわない。かなわんなぁ、と赤松の近くのベンチに腰掛けたおじさんがはっきりと口にするのにおどろいてしまった。視線をむけてしまったが、あきらかにひとりごとだった。おじさんは背を丸めたままふかくうなだれていた。足元を見ているのか、目をつむっているのかもよくわからなかった。顔はいつかの酔っぱらいのように赤かったけど、たぶん酔ってはいなかった。過剰におどろいてしまった理由はただひとつ。亡くなった祖父のものと発声の妙もふくめ、そっくりだったのだ。もう一度声を耳にしたかったけど、わざわざ話しかけるのもちがうとおもい、そのままとおりすぎた。左目の上のあたり、眉間とこめかみのあいだに頭痛がずうずうしく寝ころがっていた。眼球の上のほうのくぼみを、まぶたと呼ぶには上に位置する皮膚ごしに押してみてもたいして効果がないのは知っているけど、ついやってしまう。悪化するわけでもないので特に意味のない行為だけど、つよく押すと視界にうつるものが二重三重になってずれ、色も単調になるのがどことなくおもしろくて、ついやってしまう。だいだい頭痛が寝ころがるときはこの位置かこめかみのどちらかなので、左目の上の皮膚はそこそこの頻度でつよく押されている。しみになったらどうしよう、昔ふとそうかんがえて、しみについてインターネットで検索したところ、主な原因は紫外線とあったので、すごく安心して、頭痛もないに例の位置をつよく押してやった。押した分の痛みは頭痛とくらべればかわいいもので、あとくされもないから、こういう類の刺激はからだにどんどん与えるべきだろうと昔はかんがえていた。しかしどうだろう? 

 

はーい、おでかけします。

この文章はもうすこしながく続けられそう。もしかしたら短編くらいの量までもっていけるかも。

仮題『湯気の皮、朝の顔』 冒頭

移り行く景色を常夜灯でかぞえる癖がついたのはいつからだろうとおもいだそうといくら指を折ろうとも最初にかぞえてしまうのは右手の親指がなす「一」で、どうあがいても「零」にはたどり着けない、というのはいくらか比喩的で、いや、比喩的というより詭弁で(だってそうやん? ちかいものにせぇ、とおいものにせぇ、あんたはすでにどっちの過去もかぞえようとしとらんのやけん)、ここで詭弁ということばをもちいてしまうことがまた比喩的であることをわたしは十分に承知していて、それだけでわたしは十二分に罪を背負っているとも言えるし、そうではないとも言えるが、そもそも罪を判定すること自体わたしにあたえられた役割ではないし、罪とはいつだって相対的なものではなかったかと自問しているじぶんに気づいて、ふと目を覚ましたような気になった。

そう、わたしは確実に眠っていたのだ。指折りかぞえていたはずの常夜灯をしめす手指のかたちはあいまいで、赤子のような無防備で、だれかの手をつかもうとしているかのよう見えた。最後にかぞえた数をおもいだすことなどできないのに妙にねばってしまうじぶんのしつこさに辟易として、すこしだけ、笑った。笑った分だけまじめだったのだと、またその分ふざけていたのだとおもった。笑うとカーテンの隙間の冷えた窓ガラスはしろくにごった。にごった向こう側から射していたひかりのうすくにじんだのに、あたたかさを感じた。それは車体の移動と共にずれ、また窓自体のにごりもしだいに消え、元に景色にもどった。いや、もとに近い景色となった。空がぼんやりと帯びはじめた色は藍色で,とおくの山々はじぶんにできた闇と影のちがいをしずかによろこんでいるように見えた。反射した息の生あたたかさに安心してかるく咳ばらいをすると、もうすこしちかくの工業地帯は視界の端でひかえめにきらめいた。わたしを乗せた夜行バスに乗客はすくなく各自の席もそれなりに離れていたため、出発時からもとより車内はしずかだったが、発した咳払いがあまりにも空虚にひびいたため、わたしはこのバスの乗客がじぶんだけなのではないかとつよくおもった(その思考に不安があったかって聞いたら、あんたはどうせ「わからない」とか言うんやろ? 恥じらいもなく、少年性を誇示するようなあの目つきのまま)。座席の合間から後部をのぞこうとも人気は感じられなかった。しかし、よくよく耳をすませば寝息のようなものがかすかに聞こえた。さらに後部からは押しこらえたような低いあくびが聞こえた。首をうごかしたことで寒冷期にひどくなる肩の凝りとヘッドレストにあずけた後頭部の頭髪がぺたんとつぶれていることを自覚したわたしは、よくよく耳をすませて本当によかった、と感じる。耳をすますことはじぶんの特権であるかのような気がして、饒舌に何かを語りたいという欲求にかられた。しかし、それは指を離したら消えてしまうライターの火のようにすぐに消えてしまった。欲求というのは満たされないで消えてしまえば、はじめからそこになかったことになるのではないか? わたしの思考はすでに冴えていたが、わずかにぼんやりしたところを残していた。それは夢の残り香のようだった。ところで、残り香というものは死のにおいがしないだろうか? 欲求の消えた理由にはおそらくもろもろあるのだろうが、おしなべて早い朝のせいにすることができる。朝は、そのあわさゆえにすべての運動に静寂を課す。だから、Tのように早朝のジョギングを習慣化することは絶対的にただしいし、やかましいいびきを堂々としているものは打擲されてしかるべきだし、このバスもこうやって高速道路をおだやかに走らざるを得ないのだ。朝はやさしい暴力をふるい、あらゆるものの頭をなでる。頭のないものは、首や背その手つきを感じることができる。それは白昼の荒々しさや、夜のにぎにぎしさとは確実にことなる繊細さをたたえている。唯一対抗できる夕刻のあの赤さはあまりにもセンチメンタルで下品だという気が、最近のわたしにはしている。その感覚もどこまでつづくかわからないが。朝は、言い換えれば祝福なのだ。女性らしいやわらかさで今日一日をさずける。そう、朝は文字どおり来るものだ。朝に行くことなどだれにもできない。朝はさずけものの顔をしている。本当はさずけものでも何でもない、ただの暴力のくせに。じぶんの座席に設けられたボトルホルダーから挿してあった飲みかけの缶ビール(どうせいつものクリアアサヒやろ。あの500のやつ。たまの旅行なんやからもっとええやつにせやええんに)を手に取ると、おもったより量があることにおどろくものの、昨夜にほとんど口をつけなかったことをおもいだし、なるほど、と認識を腑に落としながらビールを喉に流しこむ。売り立ての冷えをうしなった常温の、気の抜けて味のにぶったビールを想像していたのに、ほとんど味を感じることができない。飲んだことのない茶のような味が、舌の上にひろがって、すぐに消える。それをもう一度くり返すうちに、わたしはじぶんの首が不自然にかたむいていることに気がつく。飲み物は口元からこぼれることなく、ゆっくりと喉を通過していく。 

 

無数にとおりすぎたはずの常夜灯の、そのうちのひとつの灯りがやけにまぶしく目に刺さった。それで目を覚ました。唐突だったものの、無理に起こされた、という感じでもなかった。目をつむってヘッドレストに首をあずけていただけという気がした。しかし浅い眠りの内側で夢を見ていたのはたしかで、わたしは口を開けて寝てしまうので、口内がいやに乾いていた。おそらく乗車時から点いていた暖房は今の今までとぎれることなく作動していたのだろう。夜はまだ明けていなかったものの全体にうっすらと藍色を帯びていた。晴れた空にうかぶ雲のかたちがいくぶんかはっきりと見えた。その印象をかすめ取るかのように通過していく常夜灯は今もなお明るい。時刻を確認する気にはなれなかった。夢の中でむかえたはずの朝は、まだ生まれていなかった。となりの運転席を見るとTはふだんどおりのりりしい顔つきで、生まれたこの方眠気や疲れなど一度も感じたことのないような目の色で、前方をまっすぐに見ていた。めっちゃ真剣に前見るやん、と口にすると、あ、起きたん? とわたしの起き抜けのかすれ具合と対照的な明瞭な声でこたえた。車内に流れる音楽に合わせて、かるく身体をゆらしていた。一度逮捕されたことのある電子音楽家が活動を再開してから発表した楽曲で、最近のふたりのお気に入りだった。多少ビートがつよいとは言え、こんな歌詞のない音楽を流していて眠くならないのだろうか? 疑問を口にするにはじぶんの声があまりにもかすれすぎていることを自覚していた。運転席とペットボトル助手席の間のボトルホルダーから烏龍茶のはいったタンブラーを手に取り蓋をゆるめた。ぬるい湯気と共に烏龍茶の香ばしさが、さらにその奥からは古いステンレスの臭いが立ちのぼり、鼻先をほのかにあたためた。口にすると想像よりぬるかったが、乾いた咽喉に水分が行きわたるのがわかった。おれにもちょうだい、とTが前方を見つめながら言った。さし出された左手にうすく湯気がのぼったままのタンブラーをわたすとそのまま口へとはこんだ。骨ばった喉仏が脈打つようにうごいた。ながく細い首のせいで誇張されるそのうごきは、どこか痛ましく見えた。やっぱ金属くせぇな、と言いながらTはかすかに眉をしかめた。目の色はあいかわらず生気に満ちていた。ぬるくなると余計にね、そう口にしながら返されたタンブラーの蓋をきつく締め、もとの位置にもどした。手に感じるゴムパッキンの反発と、キュッと小気味よく鳴る音がここちよかったので、最後まで両手を添えていた。そのさまは贈答のように仰々しく、ちょっとした別れの挨拶のように気軽だった。手をはなすと腕を組み、背もたれに一段とふかく体重をあずけた。やさしくまぶたを閉じれば、しぜんとあくびが出た。あくびちゃんやん、とTが言うのに、そうそう、と返す。眠くないん? たずねると、おれ? ぜんぜん大丈夫よ、神戸まで運転してくれてたやん、と返答があったものの、わたしはそれまでじぶんが高松から神戸までこの軽自動車を走らせていた事実をすっかりわすれていたので変に動揺してしまったが、それを悟られないように、あぁ、そっかそっか、と目をつむりながら返した。断片的にだが、Tと談笑しながら自動車を走らせた記憶がよみがえってきた。しかしそれはあまりにも昔の出来事のようにおもわれた。じぶんもTもまだ若く、すくなくとも数年前にあったことだとおもえてならなかった。わたしはこの狂いを認識しながら、じぶんの方が圧倒的にまちがっていることを十分に承知していた。まだ頭がぼんやりとしているのだ。ふいに胃のあたりがきゅるきゅると鳴った。それはわたしにしか聞こえないほどのちいさな振動だったが、飲み干した烏龍茶が体内ではしゃいでいるような気がしてうれしくなった。暖房の効いた車内で、わたしは雛鳥のように安心していた。まぶた越しに一度ひかりの途絶えたのがわかった。オレンジ色の蛍光と走行音の変化からトンネルにはいったのだと理解した。数秒後に両耳のつまりを感じた。違和感はあったものの、トンネルを抜けるまではやかましさを防ぐにちょうどいいかとそのままの姿勢でいた。さきほどまで常夜灯より早い速度で流れゆく蛍光のせいか、あるいはトンネルの時間感覚をまどわせる密閉性のせいか、それとも若干の下り坂だったせいか、水の中を沈んでいくような気分だった。おだやかな呼吸のまま、かたくなに目をひらこうとしなかった。

だれのためでもない近況報告

今の職場を来年の一月末で辞めることになった(勤務期間11ヵ月!)。二月の上旬から自由が丘の和食屋で働くことが決まっている。仕事を辞めるタイミングで引っ越しもすることになっている。双子のTとルームシェアする予定である(場所は新丸子から自由が丘の間? 東横線沿い?)。これで五年近く住んだ横浜から離れることになる。最初は単純に住処を変えること、職場を変えることに対する期待(あるいは不安)しかなかったのだが、ここにきて感傷的な気もちがちらほらと顔をのぞかせるようになっている。恋人のYがこちらの移住をさみしがっているせいだけではない。働きに出てきたはずの横浜に、みょうな愛着を抱いてしまったらしい。おれは根無し草で、根無し草として生きてきて、根を張ることにいつも嫌悪感をおぼえてきたはずだし、それは今も同じはずなのに、どうして後ろ髪をひかれる気もちになってしまうのだろう。きっと、ここで根を張る選択肢が明確にあって、それがすこしだけ魅力的におもえるせいだろう。でも、それはまやかしで、子供だましで、おれはもう大人で、大人はいつまでも故郷にとどまるべきではないと坂口安吾は言っていて、おれは坂口安吾を敬愛していて、彼のことばに救われてきて、横浜はおれの料理人としての故郷で、そこから離れることはきっといいことなんだと直感していて、きっとそれはただしくて、だからおれは横浜を去るんだけども、切れない縁がいくつかあることで、どうにか繋がっていられることに安心もしている、そういうじぶんのずるさをおれはいつから憎めなくなったのだろう。

 

話は変わるが、今の職場にいるひとたちはみなとても愚かで、コントの世界に入り込んだのかと錯覚するほど滑稽な状況が生じている。特にFさんは本当にだめだ。じぶんはあそこまで気味が悪くて、馬鹿で、執拗で、コミュニケーションが下手な人間を他に知らない。よく半世紀近くも、これで生きてこられたな、と単純に感心する。じぶんの生きづらさを、常に他者に転嫁している。あまりにも醜くて、正直ふつうに話すだけでも苦痛なのだが、その中で信頼を得て、くだらない所作で合わせているじぶんはなかなか役者だとおもう。作り笑顔の奥で歯を食いしばるのがくせになったのはここ二、三ヵ月の話ではないか。こんな場所で愚痴っても仕方ないのだが、どうしようもなく人と会話ができなくて、愚かで、妄想に憑りつかれているひとはたくさんいるのだと今の職場に来て実感せざるを得なくて、じぶんは決して賢いとはおもわないけども、相対的に見て、すくなくともここまで馬鹿ではないなと安心もできた。それはある種の自信ともなっていて、今の「人見知らず」に直結している。というか、じぶんという人間はこの一年でおおきく変わった。ほんとうに変わった。どこを、どう、どんなふうに、と聞かれれば、見た目以外ほぼぜんぶ、と答えて差し支えないのではないか。小説も書かなくなった。今のじぶんに作文は負担としかならないのだと判断して、無理に小説を書くのをやめることにした。結果、すごく楽になった。この一年をいずれ小説にしたいという欲望はあるが、それも決してつよくかたくななものではない。それよりも今は料理だ。料理の知識と技術を身に着けて、金をがっつり稼げる人間にならないといけない。もっとやれる、こんなもんじゃない、もっと遠くへ、たかい場所へ行けるはずだと毎日おもっている。毎日、何かしらかたちで料理の勉強(予習、復習、実践)を行っている)。小学生のころ、異常な情熱でソフトボールやミニバスケットボールと向き合っていたあのスポコン感が、たしかに芽吹いている。じぶんの未熟を常に実感しているからこそ、とても貪欲になれている。この貪欲な感じを、何故だかひどく気に入っている。無知の知だからこそ、すこしでも前進したい。慢心も諦念も要らない。まったく要らない。おれは、おれの可能性をみじんも閉じたくない。よく「歳を取ったらじぶんの限界をしぜんと悟る」みたいことを耳にするが、おれはそんなの悟りたくないし、そうやってじぶんでじぶんの可能性を限定することに何の意味もないとおもっている。はっきり言って、すごくダサいとおもっている。ずっとしつこくまとわりついていた希死念慮もどこかへ消えてしまった。今死ぬのはもったいないとつよくおもうようになった。おれは、もっとおもしろいことができるし、さまざまな可能性を秘めている。ここで死んでしまうのはドラマや映画をうつしている画面が急に破壊されるのとおなじで、あまりにも消化不良だ。

 

よく耳にする「人生なんて糞ゲーだ」的な発言には今や疑問しか感じない。社会はたしかに糞だけど、そういう発言をするひとたちはもれなく人生をゲームだとおもっていないような気がする。ほんとうにゲームだとおもっていたら、もっとなりふりかまわないのではないか。金を得るため、レベルを上げるため、イベントをクリアするために乾いた努力をするのではないか。結局、悲観が客観に勝っている。「今のじぶん」みたいな、あやふやなものを大事にしすぎている、そんな気がする。今受けている不条理はことごとくじぶんのせいだ、みたいな発言が東京喰種にあったはず(金木くん?)で、それには同意しかない。受けている不条理からのがれるには、じぶんか環境を変えるしかないだから、どちらにせよ行動は必須なはずではないか。

おれは、じぶんの大切なひとたちの希望となっていたい。あいつぐらいの人間がここまでやれるなら、おれだって、わたしだって、とおもわせたい。灯台へ灯台へ。火は、あわく灯っている。

よくわからないけど、熱くなっている。たまっていた熱をどこかに出したかっただけだ。性欲が激減したぶんの射精だ。これまでの夜とおなじで、だれも孕ませない。だれにもとどかない。ことばは子種。いつかのじぶんの背中に刺されば、足はしぜんとうごくだろう。

今、ここでうまれた

きみはあわくひかりはじめる

着古した服もすでにしてあたらしい

袖をとおす感覚 あざやかな

髪をととのえる手つきの大胆に

目元がこたえて笑う

きのうまでの悲しみも

怒りも不安も

脱ぎ捨てて洗いながした

飽きるほど耳をふさいできただろう

あたえられた胎膜は

いつからじぶんのものに

街と町をつないできた

景色さえとおくにじんで

目玉をくり抜く鈍行の窓

夜な夜なうかぶビルディングの正面は

さみしい獣か

流し流され

車輪の脇で咲く秋桜

たぶん、弱風の

冷えた空気が腿を冷やす

肌を刺すのは過去の視線と烏龍茶

積んだ本を殴りたおせば

塵埃はひかりのまっすぐとたわむれる

最先端の音楽は

なんだかおどれるのだと

午睡のまどろみは朝のよう

指と首の肉は痩せたまま

皴だけをふかくして乾いていく

琥珀の波打ち際

きみは今、ここでうまれた

8/9

柴崎友香きょうのできごと 増補新版』を読みすすめる。すさんだ気もちがおだやかになっていくのがわかる。世界のゆたかさを想像する余裕が、精神のうちにほんのりと生じるのがわかる。それは生じると同時に活力となる。

ほんとうに好きな作家だと、あらためておもった。ぼくというひとりの人間の生活をすくってくれて、すくいつづけてくれて、ほんとうにありがとう、といつか本人につたえたい。

じぶんが小説を書くにあたって影響を受けた人は山ほどいるけど、こういう特別な感情を抱く作家はほとんどいない。だからじぶんでもふしぎだ。何故おれはこんなにも柴崎友香が好きなんだろう。

 

労働。そこそこ、しかし全体的には暇。終わってから天下一品で豚キムチ定食のラーメン大盛(こってり)を、帰りにコンビニチョコモナカジャンボを買ってくらった。すごい食欲。今年はまったく夏バテしていない。減った体重がもどらないだけ。帰宅後、高松へと向かうための荷造りをはじめる。二泊か三泊か、いまだにはっきりと決めていない。早い段階で眠気がおとずれる。小説を書きはじめるも、なかなかうまくいかない。ほとんどネットサーフィンしながら音楽を聴いていた。ほんと、何してたんだろう。

 

PS 南瓜豆腐はバターを使う分、南瓜を多めに使う分、葛粉を多少ひかえたほうがもちっと仕上がります。

『なつかしい遠雷』冒頭 改稿

空がぼんやりと帯びはじめた色は藍色で,とおくの山々はじぶんにできた闇と影のちがいをしずかによろこんでいた。もうすこし近くの工場たちはひかえめにきらきらとして、ずっと精彩をはなっていた。きれいだった。眠気の脱力に勝てないわたしはヘッドレストに体重をあずけるのをこころもち嫌がっていた。それは髪形がみだれて、後頭部がぺしゃんとなってしまうのをきらう心理と言えたけど、そんな配慮をすべき相手はどこにもいなかった。髪ももう一年以上ショートヘアーをたもっている。楽だから、と何度も発した理由は、とっくに口になじんでいた。

いつかの過剰な自意識の名残か、過去の恋人といる時のくせがぬけないのか、わたしにはわからなくて、そのわからなさをふくめ今現在のわたしだという気がした。それがどうした、とおもいながらおもいまぶたを閉じた。藍色から灰色に変わった視覚情報はもう景色とは言えないのだろう。わたしは見えないものを、じっと見ていた。

 

日の出がしだいにはやくなっているのをわたしは知っているし、明日はそれがもっとはやくなることも知っている。しかしそれほんとうだろうか? 

たぶん、ほんとうだ。それはきっと、明日が来ることをわたしがみじんもうたがっていないこととおおきく関係しているんだろう。それはもちろんわたしにとっての明日という意味で、つまるところ、わたしは「明日もおいしい空気をどこかで吸っているわたし」というものをふかく信じているのだ。それはもう嘘みたいに。

信じてうたがわない。うたがわないことを、うたがわない。つるつるの脳みそで、ひたすらに前だけを見ている。信じる者はすくわれる、というけれど、わたしはうたがわないことを、うたがわないだけなので、それは何かちがうという気がする。うたがわない、の前だと、信じるはうさんくさく、気合のはいったものようにうつる。たぶん裸で鏡の前に立つようなものだ。わたしはじぶんのからだがきらいなので、ふだん脱衣所でもあまり見ないようにしているけど、時おりあえてまじまじと観察することがある。わたしはじぶんのみにくさにいらだちとかなしみをおぼえながら、全身からちからを抜いて鏡の前で立ち尽くす。もうだめだ、こうなったらじぶんに正直になるしかない、わたしは鏡の前に立ちながらいつもあきらめている。太っているわけでもないのに、みょうな具合に下腹がでている。中学生のころからそうだ。顔の肉がすくないせいで、へんてこなギャップがうまれてしまう。寝巻にしているハーフパンツのゴムの締め付けがその輪郭を強調するように赤い線を引いている。赤道みたいだ、とおもった。地球の真ん中に引かれた、じっさいには存在しない線。

いやみなくらいしろく、よわよわしいひかりをはなつ電球はもう換え時なのかもしれない。不安定に点滅して、開けっぱなしのドアの奥のむこうの闇を呼び寄せている。洗面台の上から下を向いたミニ扇風機、何故か傷だらけのドライヤー、整髪のためのスプレーとワックス、髭剃りのためのクリーム、毛先のひらいた歯ブラシが並ぶスタンドの横にコップと歯磨き粉、どれもひどくくたびれているように見える。生活感のある、というか生活そのものの脱衣所の雑多な具合と、年中無休で二十四時間作動している風呂場の換気扇のファンのせわしなさがわたしをいっそうなさけなくしていく。わたしは、わたしと目を合わせたままため息をはく。まねせんといてよ、と声を出さずにつぶやくと、鑑の中のわたしと、外にいるわたしが反転したような気分になる。ああ、変なことを考えているな、とおもいながら目をそらして浴室のドアを押す。窓のない風呂場の床はたいていしめっていて、それはこの家に住む人間がみな、じぶんの好きなタイミングでシャワーを浴びたり入浴したりするからで、それはいつからか機能しているルールで、だれかからあえて言及する必要もないくらい自然なことになっている。すくなくともこの家においては。

わたしだって例にもれず、ほかのだれもいないタイミングで、こそこそとじぶんのからだを観察していたのだ。日曜日の夕方、きっと笑点ちびまる子ちゃんが放送しているくらいの時間帯に、わたしはようやくじぶんの部屋から抜け出してきた。週一の休みはどうしても怠惰になってしまう。サザエさんはなんとなくリアルタイムで観る習慣がついているので(と言うと昭は「あんなの録画してまで観るもんじゃないだろう」と付けくわえる。おなじふうにかんがえているからわたしもリアルタイムで観ている、というふうに何故想像してくれないのだろう)、それを計算してシャワーを浴びようとしている。蛇口をひねると、温度のない水が髪をぬらした。

 

ひかりのせいで目が覚めた、とおもった。まだ夜明け前だったから、高速道路の道路照明のせいかもしれない。似たようなスピードで幾百もながしてきたものが、急にまぶたの裏にささることだってあるだろう。道路照明のしろいひかりはどれも夢の中の電球よりちからづよいけど、どことなくさみしげに見えた。いや、満足げ? それは役割を終えようとしているから? 

空はしらむ、というよりと闇とオレンジ色をあわせた感じで、どちらかというと。

そう、助手席で眠っていたわたしは眠りのあささから今が早朝だとさとっていたけど、景色だけを切り取れば夕方のほうがしっくりくるだろう。口元からだらしなく垂れかけていたよだれをティッシュでそっとぬぐい、ついでに口にはいったままのミント味のガムをはきだし、前部座席の間に置かれたちいさなゴミ箱に捨てた。ミントの味はとっくになくなっていたけど、風味だけがかすかにのこっている。それがうっとうしいから飲みかけのジャスミンティーで流しこんだ。ぬるい液体は口にふくむと温度が体温とおなじになるのがわかる。ぐいっと飲みほして空になったペットボトルをドアのホルダーにもどした。かこん、と乾いた音が車内に小気味よくひびいた。空はいっこうにあかるくなる気配がなくて、もうこのままずっとくすぶっていることを決めたみたいだった。

「今どこ?」

「三重のまんなかくらいかな」

「まだとおいの?」

「まだまだ」

そう言いながら昭は電子タバコの先端をくわえた。顔はずっと前をむいていて、視線もちらちらうごいてはいるけど、基本的におなじところばかり見ている。二度とわたしと目を合わすのをやめたみたいだ、と感じながら、そんなわけないか、とひとりでにうかんだことばをひとりで打ち消した。

「さっき夢見てた」

昭は聞いているのか、いないのか、無視しているのか、そうじゃないのかもわからなかった。そういう話の聞き方をするのを知っているので、そのまま話しつづけた。昭がわたしたち以外にもそういう態度をとるのか、わたしは知らなかった。それに知ったところで意味もないとわかっていた。昭の会社のひととわたしが会うことなんてたぶんなくて、あるとすればいつかおとずれる昭の葬式くらいだという気がした。今、隣で自動車を運転している、息をしているひとの死を想像するのはむつかしいけど、一瞬だけその時の感情をさきどってしまった。一瞬なのに、とてもかなしくて、涙が出そうになった。ほんとうに昭が死んでしまったら、わたしはその悲しみに耐えられるだろうか、と不安になった。それはその時になってみないとわからない、というか時間をかけて乗り越えるしかない、というのが過去の死からまなんだ今のところの答えではあるのだけど、そんなの吹けば飛ぶような。たんぽぽの種。

下手なあくびでごまかして、目をこすった。目をこすると、視界は何かを更新したかのようにクリアになった。何が、どうか変わったかを説明することはできないけど。こういうものをわたしは勝手に「いろどり」と呼んでいる。起き抜けの、それでいて寝不足のからだにだるさがおもくぶらさがっている。

「最近見るとおんなじ。めっちゃリアルで、日常的なのに、ぜんぶどっかずれてるんだよね。家の脱衣所、めっちゃきれいなのに夢の中だとちらかっててさ。お風呂も、みょうに閉鎖的っていうか、窓がなくて」

「たぶん、お前つかれてるんだよ。さっき息してないみたいに寝てたし」

「つかれてたら、ふつういびきかくんじゃないの?」

「お前のは、そういうんじゃないんだよ」

そう言い終えると、昭はアクセルをつよく踏んでスピードを上げた。道路をはしる自動車がすくないのは知っていたから問題ないのはわかっていたけど、慣れていたものが急に変わるとびっくりしてしまう。一定の速度で流していた道路照明が、はやくとおりすぎていく。空はオレンジをすこし濃くしたけど、そのぶん闇も増したような気がした。たぶん、それは勘ちがいだと、じぶんでもわかっていた。視界にちらつくしろいひかりがしだいにうっすらとしていく。夜が縫われて、閉じていく。夜と朝はリバーシブルのTシャツのように、その継ぎ目をきれいにかくしている。そんなことをかんがえた。こう感じたのだって、ああおもったのだって、今日がはじめてではなかった。

うしろを振りかえると、後部座席で政樹と万佐江が寝ている。ふたりの寝顔はよく似ている。ふたりともそれぞれ、べつの明後日をむいて口を魚のように開けている。いびきではないけれど、呼吸の音はたしかに聞こえる。万佐江のタオルケットまで半分うばいとった政樹は首を上にかしげて息苦しそうに見えるけど、政樹はよく変な体勢で寝ていて、それを指摘しても負担にしている様子がないので、きっとこの状況でもあとで起きたら、よく眠れた、なんて言うんだろう。どこでも眠れる、というのはあの家に住む人間の、ひいてはこの自動車に乗った四人の共通点だけど、眠りにつくまでの時間にはそれぞれ差があるようだ。中学二年生の政樹は今年の正月あたりからいっきに身長を伸ばしはじめ、声も野太くなっていくいっぽうで、半年たった今でもわたしはその事実を受け止めきれないでいる。顔つきはあきらかに変わり、あれだけつるつるでしろかった肌はあらあらしいニキビにおおわれ日焼けしている。ほそく引きしまったふくらはぎはまだ少年のもの、という感じがした。くらくても毛がすくないのはわかる。中学からはじめたハンドボールに熱中しているらしい。二年で選抜にえらばれんっておれだけやで、とうれしそうに食卓で話していたから、わたしたちまでうれしい気分になった。がつがつとご飯をほおばるさまは見ていて気もちがいい。じぶんだと下品に見そうだから、しないけど。

人間関係が良好なのか、成績がいいのか、学校自体をたのしめているのか、わたしは何も知らない。ぜんぶうまくいっていてほしいけど、それが無理なねがいだというのはわかっている。きっと平平凡凡でも、それすらも上々だったと、あとからおもうんだろう。夏の空とか、ぼんやり見ながら。

万佐江はふだん眠りがあさいとか、すぐ目が覚めると口にすることがおおいけど、わたしがそうした場面に遭遇したことはない。いや、わからない。もしかしたら立ち会ってきたのかもしれない。眠りの質とか実感とか、そんなは本人しかわからないことだから。そろそろ前を向こうかとおもった時にふと、万佐江の半分うばわれている小猫をポップなタッチでえがいたタオルケットが昔のわたしのお気に入りだと気づいた。ちいさい頃のわたしはそのタオルケットをかけてくれないと寝ないと何度もだだをこねていた。万佐江の手を焼かせた。質感もおおきさも、おもさもにおいも、ぜんぶ大好きだった。あれだけ好きで、執着していたものを手放すようになったきっかけってなんだったんだろう? 万佐江は口を魚のように開けて、時おり歯をかちかちと鳴らしている。またや、ピラニアみたい、って言おうかまよったけど、昭に無視されそうなのでだまっておいた。

8/8

労働。台風のせいで暇だった。帰宅後、小説を読み、小説を書いている。何か、絶対的に足りないものがある。眠気と頭痛、全身のよわいかゆみ、その奥にある焦りがまだ寝るべきではないと頭を無理に覚醒させている。明日の朝は起床がつらそうだ。

 

南瓜豆腐は南瓜の裏ごし(なるべく目の細かいもので処理)を多めにつかうこと、胡麻豆腐とはことなり葛と昆布出汁のみを八割ほど練った時点で裏ごしした南瓜をいれること(色ぼけと風味が飛ぶのを防止するため)、南瓜の風味を邪魔しない程度に甘を加えること、上がり間際にバターを加えてコクを足すこと、以上をまもり、冷蔵庫で一日冷やせばいい感じに仕上がるとおもいます。参考にするひとなんていないとおもうけど。