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こめかみのあたり

自由は非力だと君は言った

するどい西日が目に刺さった

茜色に染まった空はカーテンの隙間から

影をしのばせて

太陽はおおきな鱗のようで

そこかしこに一石を投じて 

物干しざおにかけた玉ねぎが

微動だにしない

温度は今

息を止めて

一度死んだ

あたたかさも冷たさも反故にされて

ほら、君の言う通り

――――――――――――― 

赤くなる前に腐りたい

もがれた青林檎はひとりごち

そのくぐもった声は

適当な闇に溶けて

記憶もすでに

どんづまりの静謐

ぜんぶ物体とおなじ

不忍池にできたきれいな波紋

うなじ

だれかがうまれた

雑記

一週間ぶりの休みは半休で、この一週間はほんとうに大変で、毎日へとへとで、きのうもTの沸かしてくれた風呂に入った方が心身的に絶対にいいとわかっていたにもかかわらず、どうしようもない疲れのせいで服もそのままに寝てしまって、今朝ももっと眠っていいはずなのに早く目を覚ましてしまって、今もこんな文章を書かずに昼寝をしてしまえばいいのにYouTubeのCHILL OUT(日本語ラップMIX)を聴きながら適当にタイピングしている。

書こうとおもったことは他愛なくて、自由は非力だということをつくづく実感した二十代前半には毎日死にたくて、じぶんは三十まで生きてないだろうと確信していたにもかかわらずもうあと二か月もすればその歳に達してしまうことの滑稽やむなしさ、過去を見つめるたびにあふれるどことないやさしさ、愛おしさ、せつなさ、そんなしょうもないことで、今はほとんどなくなった死への衝動はどこへ行ったのか、消化(昇華?)したのかと考えると、それはぜんぜん立ち消えてなくて、ただ仕事やら社会やら人間関係やらに伴う責任にしばられて発動できない状況になっているのだとじぶんではおもう。この状況はほんとうにありがたい。じぶんの存在意義や非存在意義について考えると気が滅入ってしまう。端的に言ってこの世にいる意味がないと過去と同じ結論を出してしまう。だからじぶんをしばることはおれにとって必要で、そうした拘束を他者や社会は当然のようにたやすく求めてくる。その手をおれは拒まない。拒みたくない。けれど、今週のようにくったくたになるくらい忙しいと逃避したくなる、つまり責任をほうり投げてしまいたくなるのも事実だ。絡みつく手はいつでも振りほどけるのだ。おれの意志で。覚悟で。しかしおれは自由は非力で不安と一心同体だと身をもって知っているから、ほどほどの拘束をのこしてほしがっている。これは弱さか? ずるさか? 兎角いい匙加減の自由が欲しい。せめて本くらい読ませてくれ。風の気持ちいい日に窓を開けさせてくれ。季節の野花の香りをかがせてくれ。氷の溶けてうすまったアイスコーヒーや紅茶を飲ませてくれ。

自由が丘の和食屋(GWと命名)ではたらきはじめてもう二か月になる。日に日にじぶんが将来やりたいこととのギャップをつよくしている。けれど勉強になるのは事実で、この二か月で料理人としてはかなりまともな方向へと軌道修正してもらった気がしないでもない。でも、ちがう。なにかちがう。いつもそうおもっている。正直、いつまで今の店舗にいるかも、今の会社にいるかもわからない。人生は一度きりで、体裁や他人からの評価なんか気にしていたらあっという間に大切な時間を無駄にしてしまうから、もっとまじめに、これからのことを考える必要がある。おれは何がしたいのか? その問いはもうとっくに出ている。じぶんにしか造れない店を、場所を、空間を造る。すべてはそのための準備だ。じぶんにしかつくれないもの、というのは小説を書いていても、つよくおもっていたテーマで、最後に書いた『四つのルパン、あるいは四つ目の』なんかはその意識を全面に出した気がする。というか今気になってあれを送った第十回小島信夫文学賞の結果を見てみたら案の定ダメだった。残念、無念。まぁそんなことはどうでもいい。将来のことを考えて不安が減ったのは、たぶん手に職がつきはじめている、というかある程度はついたからだろう。しかし、それは同時に将来をおもい描く際の空想やら妄想やらが削がれているということでもある。二十代前半の、あの不安と自由がひどく恋しくなった。あのひりつくような、油断すれば干からびるような毎日の中で頭に禿をつくったり身勝手な恋をしたり笑ったりしていた。あの頃の自由は完全な混沌で、そこに唯一あったゆるい規律は小説と向き合うことだった。けっきょくおれは小説と向き合えなかった。逃げたのだ。横浜に移動してからは小説と料理の二足の草鞋を履いてじぶんの営みとしてきた。それはどちらもほどほどに、中途半端にすることに他ならなかった。ただ、両方ともをここまでやった人間はなかなかいないだろう、とはおもう。しかし、そんなことはどうでもよくてどちらも中途半端なのは事実だ。そしてその事実は重い。そして今は料理と向き合うこと求められている。なかば強要されている。必要なのは痛いくらいわかっている。よろこぶべき事実なのはわかっている。でも、逃げ出したくなるのは何故だろう? 学生時代あるいはフリーター時代、散歩やサイクリングの際に目にしたうつくしかった風景のいくつかが脳裏によみがえる。ああしたみずみずしさを求めることは身勝手なのだろうか? いつだって新鮮な気もちで生きていたい。よころびを感じて生きていたい。善く生きていたい。生き方は、まったくもってひとつではない。自由は行使するのではなく、手元にあることが重要なのだ。自由のための金、金のための自由。野に咲く花のように矛盾したおもいがいつもはげしく交錯しては散る、時間というのはそれをただ無常にかぞえあげるだけだ。あーあ、出勤時間までマンスフィールドでも読もう。

『浮いた熱の中』冒頭 追加三千字

マスクをしていると視界がかすむのは吐く息のぬくもりで眼鏡のレンズがにごるからで、視界がかすむとなんだか息苦しくなるような気がして、マスクを下あごまで下げると、いつも空気ってこんなにも冷えていたんだっけ、となる、この時期、外にいると。

 

朝からくもっているせいで今が何時かよくわからない。いや、時計を見ればわかるんだけど、感覚が理解してくれない。十一時? なんで? 小田原城天守閣から見た景色、南伊豆の方の空は、あんなにもはっきりとピンクがかっているのに。それでまたよくわからなくなった。防寒しすぎたせいで寒いのか暑いのかもよくわからなくて、頭の中は世界中のどこよりもぼんやりとしていた。それはテレビで見た南国の愛に似ていた。テレビで見た南国の愛は、いつもおだやかで、のんびりとしていた。だから天守閣の中ではみんなに迷惑をかけていたとおもう。たぶんそうだ。でも、あの時も今もぜんぜん気にしてない。南国の愛を急がせることはだれにもできないし、周囲の人たちだってほんとうはそれをのぞんでいないのだ。靴下が厚手なせいで階段をすべって踏みはずしそうになった――あれ? 靴って脱いでたんだっけ? あれは犬山城の話? まぁいっか――太い木製の手すりをおもわずにぎりしめた。よわい握力だったけど、その時はそれが限界値で、最高だった。ふだん、何かをおもいきりにぎりしめることってそんなにない、ってこともないけど、風邪をひいていれば手に力を入れづらいのは道理で、ほらごらんとおりです、かるくしりもちをついて、にぶい痛みはあったけれども生地のあつさにすくわれたか、にぶさは一度も牙を見せることなくにぶいままじりじりと引っこんでしまった。それは頭のない蛇の後退のようで、そんなものを見たことがあるのか問われれば、もちろんないけど、夢の中のイメージやあいまいな映画の記憶から引っ張ってこられるのは自前の自由な思考のおかげです、ってだれに自慢するでもなく得意になるのは酔っぱらいのようで質が悪いでしょう、そそ、酔ってりゃあだれだってタチが悪かろうて、と赤ら顔にからまれたのはずっとずっと前のことだったんです。からまれたと言っても直接的な暴力を振るわれたわけではなく、むしろ反射的に顔面を殴ってしまったことをかんがみれば被害者はむこうだったのかもしれないが、すでに無効となった事項をいつまでも引きずれないのをいくらむごいと非難されようとも自己責任のひとことで、あらゆる自己と事故を接着するヤクザのやり口で、どうにか切り抜けてしまった旧い記憶はすべて嘘っぱちのドンパチさわぎかもしれないとの可能性を示唆されたのはまだ最近の出来事で、それ以降何かしらの「身辺調査」が行われているはずだけど、結果の報告もかしこまった集金の呼び声も聞くことはない。それはそうと。

 

吐く息でかすむ視界はふくらんだりしぼんだり、象の心臓のようだ、とおもっていた。歩いていた。天守閣から広場へとつながる石階段は途中、するどく折れる箇所があり、ちかくには桜の木が幾本か植わっている。しかしあいにく冬とあっては景色に可憐なうすべに色を散らすこともかなわない。かなわんなぁ、と赤松の近くのベンチに腰掛けたおじさんがはっきりと口にするのにおどろいてしまった。視線をむけてしまったが、あきらかにひとりごとだった。おじさんは背を丸めたままふかくうなだれていた。足元を見ているのか、目をつむっているのかもよくわからなかった。顔はいつかの酔っぱらいのように赤かったけど、たぶん酔ってはいなかった。過剰におどろいてしまった理由はただひとつ。亡くなった祖父のものと発声の妙もふくめ、そっくりだったのだ。もう一度声を耳にしたかったけど、わざわざ話しかけるのもちがうとおもい、そのままとおりすぎた。左目の上のあたり、眉間とこめかみのあいだに頭痛がずうずうしく寝ころがっていた。眼球の上のほうのくぼみを、まぶたと呼ぶには上に位置する皮膚ごしに押してみてもたいして効果がないのは知っているけど、ついやってしまう。悪化するわけでもないので特に意味のない行為だけど、つよく押すと視界にうつるものが二重三重になってずれ、色も単調になるのがどことなくおもしろくて、ついやってしまう。だいだい頭痛が寝ころがるときはこの位置かこめかみのどちらかなので、左目の上の皮膚はそこそこの頻度でつよく押されている。しみになったらどうしよう、昔ふとそうかんがえて、しみについてインターネットで検索したところ、主な原因は紫外線とあったので、すごく安心して、頭痛もないに例の位置をつよく押してやった。押した分の痛みは頭痛とくらべればかわいいもので、あとくされもないから、こういう類の刺激はからだにどんどん与えるべきだろうと昔はかんがえていた。しかしどうだろう? 中途半端な痛みは何かをごまかすだけで本質的な解決にはならないやん、ってだれに言われたんだっけ? 

そう、中途半端な痛みは依存の本質そのもので、依存は快楽より痛みでおおく構成されているのですよ、そもそも痛みはあらゆる感知に内在している……ここで感覚や知覚についてどうこういう言う気はありません、ただ、こちらとしては中途半端な痛みというのは便利なもので、それは例えるなら食べものに安易に添えられた温泉玉子や明太マヨネーズみたいなもので、ってこれは決して否定的な意見ではありませんよ、わたしは温泉玉子も明太マヨネーズも大好きですから、それにコーヒーも、酒も、それにアレも……そう言って黄色くて四角い短い歯列を見せた顔をおもい出したけど、はっきりとした見覚えはなくて、あれは夢だったっか、それとも何かしらの映像作品をとおして見たものだったか、それとも妄想だったのか、よくわからない。よくわからないことをよくわからないままにしておくことは本当はよくないことだと知っているけど、それでもそうしないと時間も両足も前にすすめない。歩くとは流すことで、流すとは中止と延期を同時にふくんでいて、歩き流すとはよく言ったものだと感心して、シロナガスクジラは30mくらいあって、小田原城はぜんぜん長すぎないけど天守閣内は歩き流すにはちょうどよかったなぁとおもい返して、今ここからシロナガスクジラの全長分歩くだけで人生はおおきく変わるのかもしれない、そうおもいながら、靴裏から砂利のごつごつとした感触を味わっている。そして、こめかみをつよく押している。うすよごれた歯列の、すきまがヤニでよごれていたのを決して見逃さなかった。おもい出した。おもい出してばっかりだ。世界は思い出でできている。ここで「出」がつくことの重要性っていうのはある。「思い」と「思い出」では意味がぜんぜんちがってしまう。現在と過去がごっちゃになってしまう。いや、別にそれ自体は悪くないのだけど、そもそも現在なんて過去と今流れている時間がごっちゃになってでんぐり返ししている状況そのものだけど、「思い」だけだとあまりにも抽象的になってしまう気がする。ここははっきり「思い出」と断言してやる方がいいのだ。どちらにせよ抽象的だとしても。そんな断言ショウミ重いで、と関西弁でツッコミが脳内で、みずみずしくひびきわたる。もちろんこれはダジャレだ。関西弁など、ここ小田原で持ち込む理由などどこにもないのだ。もっと真剣にやるべきだ。ふざけるにしても、もっとまじめにふざけないと。そんでもって。

 

世界は思い出でできている――六文字目から八文字目に注目すると、「出でで」となっている。世代としてデデデ大王を想起してしまう。『星のカービィ スーパーデラックス』をどれだけやりこんだことか。二等身ぺンギン、あるいは黄色タラコ(クチビル)、そんなふうに呼んでいた彼のにぎるハンマーは地面を叩くと星が出た。あれは打ち出の小槌みたいなものか。なんであれに触れるとカービィはダメージを受けたんだろう? 今下りている幅の広い石階段を一段下りるたびに記憶の引き出しが開いたり、開こうとしたりする。このかかとも打ち出の小槌みたいなものか。地面とふれるたびに、何かしらの刺激となって脳内にイメージをひろげる。三分の二ほど下りたところでふりかえると、ゆったりとカーブした石階段の列は開けてしまった記憶の引き出しみたいに見えたけど、それはあまりにもご都合主義だろうと広場の中央に植わっている赤松が思考に釘を刺すような小豆色の樹皮をてらてらと外気にさらしている。それこそ斜めに幹を伸ばす赤松はピサの斜塔のようなバランスで立っている。あの場で強烈に根を張っているのだ、とおもった。根なんて張りたくない、根無し草でいたい、と反射的に感じた。それは年明けの八百富神社での祈りのように明確で、幼稚園児がえがく将来像のようにあわかった。くもっていて今が何時かもよくわからないはずなのに、広場のあたりにはやわらかい光線が落ちていた、音もなく。マジかよ。何本かの光線の塩梅は広場の端のまだ蕾さえちいさな白梅の、枝先まできちんと落ちていた。その様子にアワくったのは事実。けどマスクの下で堂々と呼吸していたのも事実。あーあ、慣用句はなんて不自由なんだろう。実際にだまってアワくうなんてできるはずがない。慣用句のせいで比喩は比喩としての権利をうばわれていて、比喩はそのことをあたり前だとおもってへらへらしているんだから。天守閣から見た南伊豆方面のあのピンクがかった空のピンクは、世界にあるどこかのピンクをうばったものかもしれない。もしかしたら白梅の内側の、まだちいさなピンクを寄せ集めたものかもしれないし、今年の秋に咲く予定のコスモスからすこしずつおすそ分けしてもらったのかもしれない。こうした非科学的なことを、ほんとうに信じている。というより、科学というものをうたがっているからこういう発想が抜けきらない。そもそも斜にかまえるのが好きなのかもしれない。七年前の早朝、栗林公園のひょうたん型をした蓮池で蓮の花が……ポンっと音を立てて開くのを見た時からその実感が止まらない。蓮の花はどれもまっすぐ茎をのばし、天にむかって花開いていた、ささげものような神聖さをまとって。声なきささげものが好きだ。もちろんそれはフレッシュなものに限定すべきで、年期のはいった声なきささげものは厳粛な気もちに、さびれていればうらさびしい気もちになる。厳粛な気もちも、うらさびしい気もちも、フレッシュな声なきささげものの前では何の力も持たない。さわったことはないけど、生後間もない赤ん坊のうんちにふれたらおなじような感動をしそうな気がする。将来子どもを持つことがあれば、ぜひ両手で受け止めてみたい。そしたらこの気もちも変わるかもしれない。そういえばあの朝、一帯にひびいたサギの力づよい一鳴きがあって、それはこちらの感動を代弁してくれているのだとおもった。うれしかった。だからあえてこの喉から感嘆めいた声をだす必要はなかった。ちかくで鑑賞していた初老男性はじっとビデオカメラをかまえていた。それにもかかわらず散歩に来ていたおばちゃん二人組はでかい声で話しながら池のまわりをうろうろしていた。無粋なヤツラめ、そうおもっているとまた花が……ポンっと咲いた。無粋なのはどっちだ、と恥じらった。初老男性は早朝の冷えた空気を浴びながら、じっとビデオカメラをかまえていた。ここで、話はもどって。

 

ピサの斜塔に根はない。だからあれはえらい。根がないのにかたむいていられるのはバランスを取る能力に長けている証拠だ。バランスに長けているものは見ていてここちよい。だからひとはピサの斜塔に上りたがるし、サッカーにおいてはフィジカル、つまりボディバランスをすぐれた選手に称賛がおくられる。体幹をきたえる人は年々増えていると体感していて、そこには隆司もちろんこの熱で浮いた肉体もかぞえられる。ところで今現在おもうのは、身体が熱で浮くことにかんして体幹はなんの役にも立たないということだ。そもそも体幹自体がふわふわ浮いてしまっているのだ。そうなるとやはり根を張る行為はある程度必要なのかもしれない。三日前に食べた芹鍋も、根の部分がいちばんおいしかった。根無し草ではなく、根そこそこある草を目指していこう。そして根は、わかりやすく張ることが大事だ。そうじゃないとどこにも移ることができなくなる。野に咲くたんぽぽのような入り組んだ長い根はぜったいに必要ない。やさしくて、おいしい人間になろう。

 

となりでこちらの体調を心配しているちゃん丸はもろもろの自傷的な思考をひどく嫌うので、マスクの下で呼吸に集中しながらずっと口角を上げていた。

 

 

頭がわるいので頭のわるい一人称しか書けない。おれはそれを、ぜんぜん哀しいこととはおもわないけど。

仮題『浮いた熱の中』冒頭 

マスクをしていると視界がかすむのは吐く息のぬくもりで眼鏡のレンズがにごるからで、視界がかすむとなんだか息苦しくなるような気がして、マスクを下あごまで下げると、いつも空気ってこんなにも冷えていたんだっけ、となる、この時期、外にいると。

朝からくもっているせいで今が何時かよくわからない。いや、時計を見ればわかるんだけど、感覚が理解してくれない。十一時? なんで? 小田原城天守閣から見た景色、南伊豆の方の空は、あんなにもはっきりとピンクがかっているのに。それでまたよくわからなくなった。防寒しすぎたせいで寒いのか暑いのかもよくわからなくて、頭の中は世界中のどこよりもぼんやりとしていた。それはテレビで見た南国の愛に似ていた。テレビで見た南国の愛は、いつもおだやかで、のんびりとしていた。だから天守閣の中ではみんなに迷惑をかけていたとおもう。たぶんそうだ。でも、あの時も今もぜんぜん気にしてない。南国の愛を急がせることはだれにもできないし、周囲の人たちだってほんとうはそれをのぞんでいないのだ。靴下が厚手なせいで階段をすべって踏みはずしそうになった――あれ? 靴って脱いでたんだっけ? あれは犬山城の話? まぁいっか――太い木製の手すりをおもわずにぎりしめた。よわい握力だったけど、その時はそれが限界値で、最高だった。ふだん、何かをおもいきりにぎりしめることってそんなにない、ってこともないけど、風邪をひいていれば手に力を入れづらいのは道理で、ほらごらんとおりです、かるくしりもちをついて、にぶい痛みはあったけれども生地のあつさにすくわれたか、にぶさは一度も牙を見せることなくにぶいままじりじりと引っこんでしまった。それは頭のない蛇の後退のようで、そんなものを見たことがあるのか問われれば、もちろんないけど、夢の中のイメージやあいまいな映画の記憶から引っ張ってこられるのは自前の自由な思考のおかげです、ってだれに自慢するでもなく得意になるのは酔っぱらいのようで質が悪いでしょう、そそ、酔ってりゃあだれだってタチが悪かろうて、と赤ら顔にからまれたのはずっとずっと前のことだったんです。からまれたと言っても直接的な暴力を振るわれたわけではなく、むしろ反射的に顔面を殴ってしまったことをかんがみれば被害者はむこうだったのかもしれないが、すでに無効となった事項をいつまでも引きずれないのをいくらむごいと非難されようとも自己責任のひとことで、あらゆる自己と事故を接着するヤクザのやり口で、どうにか切り抜けてしまった旧い記憶はすべて嘘っぱちのドンパチさわぎかもしれないとの可能性を示唆されたのはまだ最近の出来事で、それ以降何かしらの「身辺調査」が行われているはずだけど、結果の報告もかしこまった集金の呼び声も聞くことはない。それはそうと。

吐く息でかすむ視界はふくらんだりしぼんだり、象の心臓のようだ、とおもっていた。歩いていた。天守閣から広場へとつながる石階段は途中、するどく折れる箇所があり、ちかくには桜の木が幾本か植わっている。しかしあいにくに冬とあっては景色に可憐なうすべに色を散らすこともかなわない。かなわんなぁ、と赤松の近くのベンチに腰掛けたおじさんがはっきりと口にするのにおどろいてしまった。視線をむけてしまったが、あきらかにひとりごとだった。おじさんは背を丸めたままふかくうなだれていた。足元を見ているのか、目をつむっているのかもよくわからなかった。顔はいつかの酔っぱらいのように赤かったけど、たぶん酔ってはいなかった。過剰におどろいてしまった理由はただひとつ。亡くなった祖父のものと発声の妙もふくめ、そっくりだったのだ。もう一度声を耳にしたかったけど、わざわざ話しかけるのもちがうとおもい、そのままとおりすぎた。左目の上のあたり、眉間とこめかみのあいだに頭痛がずうずうしく寝ころがっていた。眼球の上のほうのくぼみを、まぶたと呼ぶには上に位置する皮膚ごしに押してみてもたいして効果がないのは知っているけど、ついやってしまう。悪化するわけでもないので特に意味のない行為だけど、つよく押すと視界にうつるものが二重三重になってずれ、色も単調になるのがどことなくおもしろくて、ついやってしまう。だいだい頭痛が寝ころがるときはこの位置かこめかみのどちらかなので、左目の上の皮膚はそこそこの頻度でつよく押されている。しみになったらどうしよう、昔ふとそうかんがえて、しみについてインターネットで検索したところ、主な原因は紫外線とあったので、すごく安心して、頭痛もないに例の位置をつよく押してやった。押した分の痛みは頭痛とくらべればかわいいもので、あとくされもないから、こういう類の刺激はからだにどんどん与えるべきだろうと昔はかんがえていた。しかしどうだろう? 

 

はーい、おでかけします。

この文章はもうすこしながく続けられそう。もしかしたら短編くらいの量までもっていけるかも。

仮題『湯気の皮、朝の顔』 冒頭

移り行く景色を常夜灯でかぞえる癖がついたのはいつからだろうとおもいだそうといくら指を折ろうとも最初にかぞえてしまうのは右手の親指がなす「一」で、どうあがいても「零」にはたどり着けない、というのはいくらか比喩的で、いや、比喩的というより詭弁で(だってそうやん? ちかいものにせぇ、とおいものにせぇ、あんたはすでにどっちの過去もかぞえようとしとらんのやけん)、ここで詭弁ということばをもちいてしまうことがまた比喩的であることをわたしは十分に承知していて、それだけでわたしは十二分に罪を背負っているとも言えるし、そうではないとも言えるが、そもそも罪を判定すること自体わたしにあたえられた役割ではないし、罪とはいつだって相対的なものではなかったかと自問しているじぶんに気づいて、ふと目を覚ましたような気になった。

そう、わたしは確実に眠っていたのだ。指折りかぞえていたはずの常夜灯をしめす手指のかたちはあいまいで、赤子のような無防備で、だれかの手をつかもうとしているかのよう見えた。最後にかぞえた数をおもいだすことなどできないのに妙にねばってしまうじぶんのしつこさに辟易として、すこしだけ、笑った。笑った分だけまじめだったのだと、またその分ふざけていたのだとおもった。笑うとカーテンの隙間の冷えた窓ガラスはしろくにごった。にごった向こう側から射していたひかりのうすくにじんだのに、あたたかさを感じた。それは車体の移動と共にずれ、また窓自体のにごりもしだいに消え、元に景色にもどった。いや、もとに近い景色となった。空がぼんやりと帯びはじめた色は藍色で,とおくの山々はじぶんにできた闇と影のちがいをしずかによろこんでいるように見えた。反射した息の生あたたかさに安心してかるく咳ばらいをすると、もうすこしちかくの工業地帯は視界の端でひかえめにきらめいた。わたしを乗せた夜行バスに乗客はすくなく各自の席もそれなりに離れていたため、出発時からもとより車内はしずかだったが、発した咳払いがあまりにも空虚にひびいたため、わたしはこのバスの乗客がじぶんだけなのではないかとつよくおもった(その思考に不安があったかって聞いたら、あんたはどうせ「わからない」とか言うんやろ? 恥じらいもなく、少年性を誇示するようなあの目つきのまま)。座席の合間から後部をのぞこうとも人気は感じられなかった。しかし、よくよく耳をすませば寝息のようなものがかすかに聞こえた。さらに後部からは押しこらえたような低いあくびが聞こえた。首をうごかしたことで寒冷期にひどくなる肩の凝りとヘッドレストにあずけた後頭部の頭髪がぺたんとつぶれていることを自覚したわたしは、よくよく耳をすませて本当によかった、と感じる。耳をすますことはじぶんの特権であるかのような気がして、饒舌に何かを語りたいという欲求にかられた。しかし、それは指を離したら消えてしまうライターの火のようにすぐに消えてしまった。欲求というのは満たされないで消えてしまえば、はじめからそこになかったことになるのではないか? わたしの思考はすでに冴えていたが、わずかにぼんやりしたところを残していた。それは夢の残り香のようだった。ところで、残り香というものは死のにおいがしないだろうか? 欲求の消えた理由にはおそらくもろもろあるのだろうが、おしなべて早い朝のせいにすることができる。朝は、そのあわさゆえにすべての運動に静寂を課す。だから、Tのように早朝のジョギングを習慣化することは絶対的にただしいし、やかましいいびきを堂々としているものは打擲されてしかるべきだし、このバスもこうやって高速道路をおだやかに走らざるを得ないのだ。朝はやさしい暴力をふるい、あらゆるものの頭をなでる。頭のないものは、首や背その手つきを感じることができる。それは白昼の荒々しさや、夜のにぎにぎしさとは確実にことなる繊細さをたたえている。唯一対抗できる夕刻のあの赤さはあまりにもセンチメンタルで下品だという気が、最近のわたしにはしている。その感覚もどこまでつづくかわからないが。朝は、言い換えれば祝福なのだ。女性らしいやわらかさで今日一日をさずける。そう、朝は文字どおり来るものだ。朝に行くことなどだれにもできない。朝はさずけものの顔をしている。本当はさずけものでも何でもない、ただの暴力のくせに。じぶんの座席に設けられたボトルホルダーから挿してあった飲みかけの缶ビール(どうせいつものクリアアサヒやろ。あの500のやつ。たまの旅行なんやからもっとええやつにせやええんに)を手に取ると、おもったより量があることにおどろくものの、昨夜にほとんど口をつけなかったことをおもいだし、なるほど、と認識を腑に落としながらビールを喉に流しこむ。売り立ての冷えをうしなった常温の、気の抜けて味のにぶったビールを想像していたのに、ほとんど味を感じることができない。飲んだことのない茶のような味が、舌の上にひろがって、すぐに消える。それをもう一度くり返すうちに、わたしはじぶんの首が不自然にかたむいていることに気がつく。飲み物は口元からこぼれることなく、ゆっくりと喉を通過していく。 

 

無数にとおりすぎたはずの常夜灯の、そのうちのひとつの灯りがやけにまぶしく目に刺さった。それで目を覚ました。唐突だったものの、無理に起こされた、という感じでもなかった。目をつむってヘッドレストに首をあずけていただけという気がした。しかし浅い眠りの内側で夢を見ていたのはたしかで、わたしは口を開けて寝てしまうので、口内がいやに乾いていた。おそらく乗車時から点いていた暖房は今の今までとぎれることなく作動していたのだろう。夜はまだ明けていなかったものの全体にうっすらと藍色を帯びていた。晴れた空にうかぶ雲のかたちがいくぶんかはっきりと見えた。その印象をかすめ取るかのように通過していく常夜灯は今もなお明るい。時刻を確認する気にはなれなかった。夢の中でむかえたはずの朝は、まだ生まれていなかった。となりの運転席を見るとTはふだんどおりのりりしい顔つきで、生まれたこの方眠気や疲れなど一度も感じたことのないような目の色で、前方をまっすぐに見ていた。めっちゃ真剣に前見るやん、と口にすると、あ、起きたん? とわたしの起き抜けのかすれ具合と対照的な明瞭な声でこたえた。車内に流れる音楽に合わせて、かるく身体をゆらしていた。一度逮捕されたことのある電子音楽家が活動を再開してから発表した楽曲で、最近のふたりのお気に入りだった。多少ビートがつよいとは言え、こんな歌詞のない音楽を流していて眠くならないのだろうか? 疑問を口にするにはじぶんの声があまりにもかすれすぎていることを自覚していた。運転席とペットボトル助手席の間のボトルホルダーから烏龍茶のはいったタンブラーを手に取り蓋をゆるめた。ぬるい湯気と共に烏龍茶の香ばしさが、さらにその奥からは古いステンレスの臭いが立ちのぼり、鼻先をほのかにあたためた。口にすると想像よりぬるかったが、乾いた咽喉に水分が行きわたるのがわかった。おれにもちょうだい、とTが前方を見つめながら言った。さし出された左手にうすく湯気がのぼったままのタンブラーをわたすとそのまま口へとはこんだ。骨ばった喉仏が脈打つようにうごいた。ながく細い首のせいで誇張されるそのうごきは、どこか痛ましく見えた。やっぱ金属くせぇな、と言いながらTはかすかに眉をしかめた。目の色はあいかわらず生気に満ちていた。ぬるくなると余計にね、そう口にしながら返されたタンブラーの蓋をきつく締め、もとの位置にもどした。手に感じるゴムパッキンの反発と、キュッと小気味よく鳴る音がここちよかったので、最後まで両手を添えていた。そのさまは贈答のように仰々しく、ちょっとした別れの挨拶のように気軽だった。手をはなすと腕を組み、背もたれに一段とふかく体重をあずけた。やさしくまぶたを閉じれば、しぜんとあくびが出た。あくびちゃんやん、とTが言うのに、そうそう、と返す。眠くないん? たずねると、おれ? ぜんぜん大丈夫よ、神戸まで運転してくれてたやん、と返答があったものの、わたしはそれまでじぶんが高松から神戸までこの軽自動車を走らせていた事実をすっかりわすれていたので変に動揺してしまったが、それを悟られないように、あぁ、そっかそっか、と目をつむりながら返した。断片的にだが、Tと談笑しながら自動車を走らせた記憶がよみがえってきた。しかしそれはあまりにも昔の出来事のようにおもわれた。じぶんもTもまだ若く、すくなくとも数年前にあったことだとおもえてならなかった。わたしはこの狂いを認識しながら、じぶんの方が圧倒的にまちがっていることを十分に承知していた。まだ頭がぼんやりとしているのだ。ふいに胃のあたりがきゅるきゅると鳴った。それはわたしにしか聞こえないほどのちいさな振動だったが、飲み干した烏龍茶が体内ではしゃいでいるような気がしてうれしくなった。暖房の効いた車内で、わたしは雛鳥のように安心していた。まぶた越しに一度ひかりの途絶えたのがわかった。オレンジ色の蛍光と走行音の変化からトンネルにはいったのだと理解した。数秒後に両耳のつまりを感じた。違和感はあったものの、トンネルを抜けるまではやかましさを防ぐにちょうどいいかとそのままの姿勢でいた。さきほどまで常夜灯より早い速度で流れゆく蛍光のせいか、あるいはトンネルの時間感覚をまどわせる密閉性のせいか、それとも若干の下り坂だったせいか、水の中を沈んでいくような気分だった。おだやかな呼吸のまま、かたくなに目をひらこうとしなかった。

だれのためでもない近況報告

今の職場を来年の一月末で辞めることになった(勤務期間11ヵ月!)。二月の上旬から自由が丘の和食屋で働くことが決まっている。仕事を辞めるタイミングで引っ越しもすることになっている。双子のTとルームシェアする予定である(場所は新丸子から自由が丘の間? 東横線沿い?)。これで五年近く住んだ横浜から離れることになる。最初は単純に住処を変えること、職場を変えることに対する期待(あるいは不安)しかなかったのだが、ここにきて感傷的な気もちがちらほらと顔をのぞかせるようになっている。恋人のYがこちらの移住をさみしがっているせいだけではない。働きに出てきたはずの横浜に、みょうな愛着を抱いてしまったらしい。おれは根無し草で、根無し草として生きてきて、根を張ることにいつも嫌悪感をおぼえてきたはずだし、それは今も同じはずなのに、どうして後ろ髪をひかれる気もちになってしまうのだろう。きっと、ここで根を張る選択肢が明確にあって、それがすこしだけ魅力的におもえるせいだろう。でも、それはまやかしで、子供だましで、おれはもう大人で、大人はいつまでも故郷にとどまるべきではないと坂口安吾は言っていて、おれは坂口安吾を敬愛していて、彼のことばに救われてきて、横浜はおれの料理人としての故郷で、そこから離れることはきっといいことなんだと直感していて、きっとそれはただしくて、だからおれは横浜を去るんだけども、切れない縁がいくつかあることで、どうにか繋がっていられることに安心もしている、そういうじぶんのずるさをおれはいつから憎めなくなったのだろう。

 

話は変わるが、今の職場にいるひとたちはみなとても愚かで、コントの世界に入り込んだのかと錯覚するほど滑稽な状況が生じている。特にFさんは本当にだめだ。じぶんはあそこまで気味が悪くて、馬鹿で、執拗で、コミュニケーションが下手な人間を他に知らない。よく半世紀近くも、これで生きてこられたな、と単純に感心する。じぶんの生きづらさを、常に他者に転嫁している。あまりにも醜くて、正直ふつうに話すだけでも苦痛なのだが、その中で信頼を得て、くだらない所作で合わせているじぶんはなかなか役者だとおもう。作り笑顔の奥で歯を食いしばるのがくせになったのはここ二、三ヵ月の話ではないか。こんな場所で愚痴っても仕方ないのだが、どうしようもなく人と会話ができなくて、愚かで、妄想に憑りつかれているひとはたくさんいるのだと今の職場に来て実感せざるを得なくて、じぶんは決して賢いとはおもわないけども、相対的に見て、すくなくともここまで馬鹿ではないなと安心もできた。それはある種の自信ともなっていて、今の「人見知らず」に直結している。というか、じぶんという人間はこの一年でおおきく変わった。ほんとうに変わった。どこを、どう、どんなふうに、と聞かれれば、見た目以外ほぼぜんぶ、と答えて差し支えないのではないか。小説も書かなくなった。今のじぶんに作文は負担としかならないのだと判断して、無理に小説を書くのをやめることにした。結果、すごく楽になった。この一年をいずれ小説にしたいという欲望はあるが、それも決してつよくかたくななものではない。それよりも今は料理だ。料理の知識と技術を身に着けて、金をがっつり稼げる人間にならないといけない。もっとやれる、こんなもんじゃない、もっと遠くへ、たかい場所へ行けるはずだと毎日おもっている。毎日、何かしらかたちで料理の勉強(予習、復習、実践)を行っている)。小学生のころ、異常な情熱でソフトボールやミニバスケットボールと向き合っていたあのスポコン感が、たしかに芽吹いている。じぶんの未熟を常に実感しているからこそ、とても貪欲になれている。この貪欲な感じを、何故だかひどく気に入っている。無知の知だからこそ、すこしでも前進したい。慢心も諦念も要らない。まったく要らない。おれは、おれの可能性をみじんも閉じたくない。よく「歳を取ったらじぶんの限界をしぜんと悟る」みたいことを耳にするが、おれはそんなの悟りたくないし、そうやってじぶんでじぶんの可能性を限定することに何の意味もないとおもっている。はっきり言って、すごくダサいとおもっている。ずっとしつこくまとわりついていた希死念慮もどこかへ消えてしまった。今死ぬのはもったいないとつよくおもうようになった。おれは、もっとおもしろいことができるし、さまざまな可能性を秘めている。ここで死んでしまうのはドラマや映画をうつしている画面が急に破壊されるのとおなじで、あまりにも消化不良だ。

 

よく耳にする「人生なんて糞ゲーだ」的な発言には今や疑問しか感じない。社会はたしかに糞だけど、そういう発言をするひとたちはもれなく人生をゲームだとおもっていないような気がする。ほんとうにゲームだとおもっていたら、もっとなりふりかまわないのではないか。金を得るため、レベルを上げるため、イベントをクリアするために乾いた努力をするのではないか。結局、悲観が客観に勝っている。「今のじぶん」みたいな、あやふやなものを大事にしすぎている、そんな気がする。今受けている不条理はことごとくじぶんのせいだ、みたいな発言が東京喰種にあったはず(金木くん?)で、それには同意しかない。受けている不条理からのがれるには、じぶんか環境を変えるしかないだから、どちらにせよ行動は必須なはずではないか。

おれは、じぶんの大切なひとたちの希望となっていたい。あいつぐらいの人間がここまでやれるなら、おれだって、わたしだって、とおもわせたい。灯台へ灯台へ。火は、あわく灯っている。

よくわからないけど、熱くなっている。たまっていた熱をどこかに出したかっただけだ。性欲が激減したぶんの射精だ。これまでの夜とおなじで、だれも孕ませない。だれにもとどかない。ことばは子種。いつかのじぶんの背中に刺されば、足はしぜんとうごくだろう。

今、ここでうまれた

きみはあわくひかりはじめる

着古した服もすでにしてあたらしい

袖をとおす感覚 あざやかな

髪をととのえる手つきの大胆に

目元がこたえて笑う

きのうまでの悲しみも

怒りも不安も

脱ぎ捨てて洗いながした

飽きるほど耳をふさいできただろう

あたえられた胎膜は

いつからじぶんのものに

街と町をつないできた

景色さえとおくにじんで

目玉をくり抜く鈍行の窓

夜な夜なうかぶビルディングの正面は

さみしい獣か

流し流され

車輪の脇で咲く秋桜

たぶん、弱風の

冷えた空気が腿を冷やす

肌を刺すのは過去の視線と烏龍茶

積んだ本を殴りたおせば

塵埃はひかりのまっすぐとたわむれる

最先端の音楽は

なんだかおどれるのだと

午睡のまどろみは朝のよう

指と首の肉は痩せたまま

皴だけをふかくして乾いていく

琥珀の波打ち際

きみは今、ここでうまれた