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『ゆらるゆらり』

味のないガムを噛んでいるみたいだと口にした。ほんとうに味のなくなったような気がした。あれからずっと噛みつづけている、味のないガムを。

生活は平々凡々、やろうとおもえば何でもやれると勘ちがいした時期はとうにとおりすぎて、何にもできないとすべてをあきらめる時期すらとおりすぎようとしている。何か、ポジティブな自己肯定につつまれる日々、もしかするとこれが歳をとるということなのかもしれない。

仕事は平々凡々、だれにでもできる仕事を馬鹿にしていた時期はながかったが、けっきょくはその場所に埋没するのが一番いいやり方なのだとおもう時期にさしかかった。仕事に期待することがらをすくなくすれば人生における負担の何割かはのぞけるのだとさとった。仕事をアイデンティティとするのは途方もないまちがいだとさけびたくなることがあった。そんな時は毒杯をあおるようにウィスキーをぐっと飲み干すのが一番いいやり方なのだとさとってからの数年がある。

朝焼けを見たことがなかった。正確には朝焼けを見たことがないと思いこんでいた。それもそのはずで早起きがむかしから苦手だった。高校から大学にかけては遅刻の常習犯だった。そんな為体でも三年四年とできっちり卒業できるのだから楽なものだとおもった。学生でなくなってからは一度も遅刻をしていない。どれだけ酒を飲もうが、疲れていようが、たとえ休日だろうが毎朝七時二十五分、きまった時刻に目がさめるようになった。一年目の桜が散る頃、生活と仕事をぬい合わせる機械になったかのようだとあわく感じたが、その感覚をどことなく引きずるうちに機械の役割を心身ともに引き受けることになった。つまり機械のような人間なのではなく、人間のような機械へと経年変化を遂げた。これらの隠喩のうちに煮え切らぬ化し切らぬジレンマがある。今もまだ無限に散りつづける桜の片が舞っている。

朝焼けをはじめてみた時に、これがはじめてではないのだとさとった。睦月、真冬の冷めた空気の中、すべての色をたたえた空のもっとも低い位置で太陽があまりにもまぶしかった。見なれた街のかたちは消え、首を上にかしげば雲雲が天使のように浮かんでいた。十歳、初夏、学校から三十キロほどはなれた山での自然教室、同級生たちと泊まったテントから抜け出してトイレに行こうと際の記憶がよみがえった。それは山山の向こうから唐突にさした強烈な、あまりに強烈なひかりだった。そのひかりに関するもろもろをなぜ今の今まで忘れていたのか。おそらくあまりにつよさに思わず目をつむったこと、しろさだけが霞のごとくのこったこと、その一連の流れにこたえを見ることができるだろう。テントに戻るまで道のりうんぬんはどうしても思いだせなかった。記憶はよみがえった瞬間からたちまち輪郭をうしない、ひかりの印象を中心にぼんやりとした映像として胸の内にちいさく折りたたまれてのこった。一度ひらいてしまったびっくり箱のようなもので、ひろげるのは他愛もない動作だった。朝焼け、おそらくは何度も夢に見ていたのだと、しばらくしてからさとった。平々凡々な仕事からの、ひとり酒におぼれてからの帰り道でのことだった。空風が吹けば首や指さきはさむかったが、顔は火照ってあつかった。歌をうたいたくなったが、何をうたっていいのかわからずに鼻をおおきくすすった。歩きながら振りむけば住宅の向こうでしろく浮かぶ小舟のような三日月がじっと息をひそめていた。

声もなく 晴天に伸ぶ 枯れ木の手

高校生の頃、大人に見られようと粋がった苦闘の日日があった。多少きらわれようとも同級生とはむやみにまじわらず教師やアルバイト先の大学生と背伸びした会話をしては悦にひたり、休日には歳不相応の恰好ばかりして喫茶店で煙草も吸えぬくせにあさく区切られた喫煙席にあえてすわっては向こう側での同い年らしきにぎわいに侮蔑のまなざしをおくった。はじめのうちはただひとりでカフェラテをたのしむだけの無意味な時間だったが、しばらくすると無沙汰を解消するために流行りの小説を持ちこむようになった。その趣味の悪さを自覚するに至るまでどれだけの駄文をむさぼり、どれだけの副流煙で肺を黒く染めたことか。化け物になりたい、とつよくおもったことは外見のみに固執した他人からの判断にゆだねる稚拙な認証欲求だった。禁煙席でひとりコーヒーを飲みながら窓の外をながめるひとみのうちに棲まう化け物を自覚する時期に至れば、ぶあつく区切られた向こう側に過去の似姿を横目ながらに探すこともそうむつかしくはない。