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葛か海老(仮題)

   駅前の河津桜は満開で、焦げ茶色の細い幹や枝に絡みつくツツジ色の―花の色を形容するのに他の花の名を借りなければならぬとは皮肉な話だ―花弁はほとんど無数で、その一枚がはらりと風にさらわれると道路を挟んで二手にわかれた駅舎の南側へと飛んで行った。ある程度の上昇下降はあるものの、ほとんど一定の高さで飛んで行き、やがてどこかへ消えていった。日曜日とは言え、駅前の人通りはすくなくなかったし、人工的に植えられたでケヤキユリノキははじめからそこにいたのだと言わんばかりに高くどっしりとかまえていた。いくらツツジ色が景色に映えるといえども、あんなちいさな一枚ではたやすく見失ってしまう。それにこの日は朝から晴天で、雲もすくなく、横浜市中区にしてはめずらしく空の青さもずいぶんと鮮やかだった。初夏めいたはっきりとした色彩や濃い影の中では、あらゆるものが目立とうとする。それはまるで子どもたちの背比べのようなものかもしれない。彼らは背伸びまでしてじぶんの勝利を主張するが、数年もすればだれもかれもそんな高さなどものともしないほどに成長し、身体をおおきくする。競い争った事実などみな忘れて、恋や勉学や退屈に頭を悩ますようになる。この日のことごとくの鮮やかさも一過性のもので、たえず何かにさらわれていた。それは時間だったかもしれないし、無関心だったかもしれないし、彼ら自身だったかもしれない。

  南口から出れば横浜スタジアムはすぐ目の前で、さらに南へとのびる信号をひとつ渡ればその敷地内、つまりスタジアムを包括する横浜公園へと侵入することになる。四月一日の開幕前に最後のオープン戦が昼過ぎから行われることになっていたため、ユニフォーム姿の若いカップルや夫婦、子どもたちのすがたがちらほらと見受けられた。開始にはまだずいぶんと時間があったが、彼らはどうやって時間をすごすのだろう? この街ではそんなことを危惧する必要などどこにもない。スタジアムの輪郭をなぞるようにして歩けば噴水や花壇、さらに子ども向けの遊具のあるエリアに至るし、さらに行けば庭園風のちょっとした自然鑑賞をたのしむことのできるエリアもある。もしそこで満足できないのだとしても、公園を東に抜ければカフェやコーヒーショップなどいくらでもあるし、南東に抜ければ中華街があった。時間などいくらあっても足りないくらいではないか。しかし持っている金は有限で、体力も、試合開始までの時間も同じく有限なのだ。おそらく子どもたちは、いや、もしかすると大人たちもそうかもしれないが、今日のような春の陽気につつまれたこの街を最高にすばらしい場所だとおもうだろう。原風景のひとつとして胸にきざみ、色とりどりに咲きほこるチューリップやパンジーのにおいをちいさくやわらかい鼻でふんだんに嗅いだこと、ベンチに座り肩を寄せ合う恋人たちが楽しそうに語らっているのをおしゃれだとおもいつつながめたこと、おなかが空いたと駄々をこねれば母親が不満をこぼしながら一枚のイチゴジャムとマーガリンをうすく塗ったサンドイッチさしだしてくれたこと(本当はおやつの分なんだからね!)、そんなことを二十年後にもおもい出し、いつかじぶんの子どもにも同じことをさせてやりたいものだと考えるのだろう。それが至極当然ともいえるのは、このさわやかな都市の流儀がある種の普遍性を持っているからだろう。歴史や文明に培われたこの平穏が未来に失われることなどどうして想像できるだろうか?  こんな春の陽気の中で悲惨なことを考えるのはだれにもできない真似だった。

  夏(なつ)治(はる)は通行人のほとんどが南口から南へと抜けていくのに逆らうようにして北へと歩をすすめていた。駅そのものは利用せず、一駅以上先にある自宅からここまで歩いてきたのだ。それは健康のためでもあり、節約のためでもあった。彼はこれから昨日までのように職場へと向かなければならなかった。日曜日のこんな晴れた朝に、このままぶらぶらと散歩することが許されていないのをうらめしくおもった。とはいえ自宅からかれこれ三十分以上歩いていたので、身体は火照り、額には汗がうかんでいた。はじめに羽織っていた仕事日用のブルゾン―仕事に来る時はいつもこれを着用していた。キャラメル色の革製でもの自体は良く、値も張ったが、年期の入り具合と使いやすさから仕事日用に回していた。毎年一度はクリーニングに出してはいたが、特に手入れはしておらず、よく人から光沢やつやを褒められるのを夏治本人は不思議におもっていた―も今は小脇に挟み、なるべくちいさく折りたたんでいた。やはり冬は終わったのだ、例年より遅いソメイヨシノの開花も今日で一気に具合は変わるだろう、そんなことをおもいながら南口の駅舎の前を素通りし、ほとんど隣接した市役所との間の遊歩道へと足取りをずらした。その道の脇にも横浜公園よりは小規模ではあるものの花壇があった。区画に沿って直方体や立方体の白いブロックが置かれ、その中に土が敷かれ、植物たちが植えられていた。ほとんど毎日同じ道を通っているのに、花壇の内側での日々の変化になどこれまでまったく気がつかなかった。夏治はその事実に人知れずなさけないおもいをしながらも、今この瞬間に花々を愛でることで帳尻を合わせるような、おのれの感性のにぶさを清算するような気持ちでいた。各ブロックの花々は丁寧に手入れがされており、箱庭のような趣があった。それぞれ植えてある内容に大差はなかったが、遊歩道の中ほどの十字に交差する真ん中には木製のひときわ大きなブロックが置かれ、幹の細い一本のソメイヨシノが植えられていた。枝々のさきを見やればほんのりのうすべに色に染まっているのもの、まだ蕾の状態だった。ふだんこの木の前を通ることはなかった。その前に空いた駐車場とタクシーばかりが停まる一方通行の道路を横切り、風のつよいビルの谷間へと足を向けていた。それはもちろん日々仕事があるからだが、今朝のように朝にうまく時間をつくればソメイヨシノに近寄り、その変化を見過ごさずにすむかもしれない。日曜日のほとんど人通りのない遊歩道―この先はビジネス街へとつづいているのだ―ではソメイヨシノの細い幹にそっと手を押し当てることだってできる。ほんのすこし、時間のことが気にかかったが、ポケットの中からスマートフォンを出すのがおっくうだった。十中八九余裕はあると踏んでいた。歩んできた道をそのまま追うようにして風がそよそよと吹きつづけていて、それが非常にここちよかった。汗がしだいに引いていくのを感じていた。

  今朝はやけにすっきりとした目覚めで、目覚まし時計が鳴る前にすでに身体を起こし、歯を磨きはじめていた。TVはつけずにステレオを起動し、スピーカーから音楽を流した。最近よく聴き、昨夜も流していた古いジャズの音源だった。夏治は古い音楽を好んで聴いたが、楽器は何ひとつ演奏できず、音楽に関する知識もうわべだけだった。ゆっくりと身支度をととのえ、朝食としてプレーンヨーグルトを食べ、飲むことのできない日も多々ある朝のアメリカンコーヒーもしっかりと味わうことができた。それでも何故か時間はあまり、何かをするには中途半端な時刻だったため、おもい切って出勤することにした。目覚めてから気分はずっとさわやかだった。何か嫌な夢を見ていたような気もしたが、目覚めた瞬間にはもう忘れていた。身体もいやかるく、昨日までの労働など存在しなかったようだとおもえた。気温のことなど気もせず習慣的にブルゾンをはおい、仕事日用のうす汚れたスニーカーを履き、玄関を出て鍵を閉めた時、つまり外気にふれた時、夏治はひとつの確信を得た。ああ、おれの気分がこんなにもいいのはとうとう春がやってきたからだ、と。彼は初夏をこよなく愛していた。その初夏をおもわせる春の陽気も同じく愛していた。アパートの二階から階段を軽快に下り、エントランスを抜けると、陽のひかりが彼をまんべんなくつつんだ。そのやわらかい温度差が飛び上がってしまいそうなほどうれしかった。その高揚のまま走りはじめ、住宅街を抜けることもできただろう。しかしそれを自制し、なるべくゆっくりとした歩調でゆるい勾配の坂道をくだった。早く職場に着く必要などどこにもなかった。明日は週に一度の定休日がゆえに仕込みはすくなかったし、予約もほとんどはいってなかった。出勤時刻の九時半ちょうどに職場に着いても―ふだんであれば最低でも十五分前には出社していた。昨日おとといに関しては仕込みが間に合わなかったため、三十分以上前にはすでに白衣に着替えていた―だれも文句など言わないだろう。いつもはきびしい親方も、こんな気持ちのいい日くらいは許してくれるにちがいなかった。ここのところ売り上げは伸びているし、じぶんは日ごろからまじめに勤務しているのだからなおのこと(となれば、時間の余裕はさらにできる?)。そんなことをぼんやりと考えながら、ところどころ寄り道しながら歩いた。ふだん通らない道を通るとこころがおどった。中華街の端ともそうではないとも言えるどっちつかずの狭い路上、行ったことのないスーパー銭湯の前を通ると、だらしなくくすんだランニングシャツを着た初老の男性が空を見ながら煙草をふかしていた。このひとは昨日までの寒さの中でもこんな格好で煙草をふかしていたんだろうか! 通勤路をすこしずれればこんなにもゆたかな世界が目の前で像をむすんでいた。低く張られた電線越しの空を烏が横切った。嘴には紙袋の切れはしか何かをくわえていた。あれで巣でもつくるのだろうか。烏の生態になどみじんの興味もわかないくせに疑問だけが粘ついて頭にのこった。ふと横を見やれば、路地裏の痩せた黒猫と目が合った。ひかりの加減もあり、瞳はあわい金色に染まっていた。足を止めてかまいたい気持ちもあったが、そんなことをすればたちまち時間はなくなってしまうだろう。今日はなるべくゆっくりと歩きたい気分だったのだ。もともと早足で、ふだんなら二十分弱で職場へと到達するほどのペースだが、この日はソメイヨシノの幹にふれた時点ですでに三十五分が経過していた。おれはこれまで早く歩きすぎていたのかもしれない。それは横浜に引っ越し今の職場に通いはじめた三年間を指していたのか、はたまた二十七年の人生そのものを指していたのかは彼にもわからなかった。ただ、これまで早く歩きすぎてきたことを後悔していた。明日から十五分早く起き、十分早く自宅を出よう、そうつよくおもったが、明日は休日で、明後日からの出勤までその気持ちが持続するとは到底おもえなかった。そんなことは夏治も重々承知していた。こうした折に突如つよい風が吹いた。風圧から顔をそらすと、河津桜の花弁が目の横を抜けて行き、さらに前を行く通行人をも越し、ビジネス街まで届くかという高さまで上がっていき、そのまま視界から消えていくまでの一部始終を目撃した。そろそろおれも行かないとなぁ、あとくされなくそうおもい、足をうごかした。太陽がうすい雲に隠れたからか、振り向いたさきの花壇に咲いたチューリップの色彩がいやに生々しく見えた。もう時間がないことはわかっているのに手にふれて観察せずにはいられなかった。作り物めいたしっとりとした葉々の中心からストローのような茎がたよりなく上に伸び、その先端では花弁がそっと何かをつつむかのようにふんわりと卵型にかさなり、アンバランスにおおきな花被を形成していた。

  ほんとうに時間がないのになぁ、そうつぶやきながら花弁のひとつを指先でなぞった。声はちいさく、掠れていた。うすい雲が流れ去ると、ふたたびやわらかい陽のひかりが彼をつつんだ。立ち並ぶビルの隙間からからシャンパンの泡のようなひかりの粒がゆっくりと降りそそいでいた。もう行けということか、そうおもいながら指先で触っていた花弁をつまんで外した。何も考えていなかった。気づいたら一枚だけ剥がしていた。河津桜ツツジ色をさらに濃くしたような一枚だった。

  おれは仕事に行く気がないのだろうか?  相変わらずゆっくりと歩いたまま、左手に乗せた花弁が風にさらわれてどこかに消えてしまうのを期待していた。彼が職場へと至るための最後の一本道、ビルの谷間の細い路地に差し掛かると案の定風がつよく吹いていて、あっという間にツツジ色は後方へ舞って行った。まるで夏治の歩いてきた道をたどるかのように。日陰に入るとすこし肌寒かったが、ブルゾンをはおるほどではなかった。それにしても日なたから日陰へ、日陰から日なたへと足を踏み入れた時の感触というのはなんと心地がいいのだろう。彼はひかりにも影にも質感があることを信じていた。路地の先では二三羽の烏が隣店のゴミ箱をあさっていた。

 

 小説らしい小説を書きたい。ウルフとかマンスフィールドみたいな小説が書きたい。