三部草稿 冒頭&12/18 mon

「たぶん最初に見て、そのあと聞いたんだと思います」

かるく咳払いをしたあと、彼女は話しはじめた。その声がかすれていたのは決して年齢のせいだけではなく、この日初となる本格的な発声のためだった。メイクなしの部屋着のままであるにもかかわらず、リビングの大窓から射しこむ朝陽を浴びる横顔は凛として気品さえただよっていた。

「詳細はあとで述べます。まず、わたしはいつもどおり四時四分に目を覚ましました。今日も設定した目覚まし時計が鳴る一分前に目を覚ましたのです。これで四時四分に目を覚ますのは六十三回連続です。規則ただしい生活には神が宿るのだと日々実感するところです。わたしはベッドから身体を起こして、カーテンを開けました。まだ空は暗く、この日が晴れるかどうかもわかりませんでしたが、うっすらと空は白んでいました。しばしばおもうのですが、寝室から星の瞬きが見えないことがどれだけわたしの生活のさまたげとなっているでしょう。あの街灯が邪魔なのです。石川さん家の玄関口にあるあの街灯が。ご存知のとおり、わたしは石川さんにも何度もお願いしましたし、じぶんで役所に出向いていわゆる行政的な手つづきを踏もうとしたこともありました。けれど、わたしの訴えはいつもはじめの一歩で、そう、たったはじめ一歩でくじかれてしまうのです。おもえばわたしの人生はこうしたくじき、わたし自らの過失というより外から強制された失敗の連続でした。たった六十五年だとまわりは言うでしょう。人間は時に口を酸っぱくすることも必要なのです。けれど今のわたしにとってそんなのは些細なことです。あの場所の街灯のあるなしはたしかに重要な事項ですが、わたしの精神はそんなことで乱すべきではないのです。わたしは淑女です。それも最後の。ご存知でしょう?」

彼女は食卓の上の使い古されたマグカップに手をのばし、ほんの二三分前にみずから注いだミルクティーに口をつけた。その手はわずかにふるえている。視線は虚空を見つめるばかりでとらえどころがなかった。瞳は部屋の中に満ちた朝の空気と同化するようにおだやかで、澄みきっていた。波乱万丈を経た老人が帯びるある種の透明性を彼女も宿していた。それは沖合の、風すらもないひたすらな凪に似ていた。

「そう、怒りという感情をわたしはいつからか忘れはじめているのです。それは喜ばしいことであり、悲しいことでもあるのでしょう。なんせわたしの人生の原動力はまぎれもなく怒りだったからです。その怒りが失われていくこと、わたしは間違いなく死に向かっているのでしょう。まわりは言います。あなたも近い将来、旦那さんのところへ行くのね。わたしはいつも笑顔を見せながら、こころで強く否定をしているのです。嫌、そんなのはまっぴらごめんだわ、って。何故わたしが死んでまであの人といっしょにいないといけないのでしょう? あの人への感情がわたしの人生の大半を占めていたことはまさに悲劇でした。これは何度口にしても足りないくらいです。たしかにあの人が手をあげたことは一度もありませんでした。けれどご存知のとおり、精心的にはいつもなぶられ、貶められていたのです。長い苦難の果てで、ようやく自由を手に入れたとおもったら、ああ、わたしはもうずいぶんと年老いていたのです。浮いた血管だらけの手はあまりに貧相で、髪は艶もなく白髪が交じっていたのです。ご存知のとおり、この事実はわたしを打ちのめしました。しかし今やそこから立ち直ってひさしいのです。わたしはじぶんを一本の木に例えることにしたのです。わたしの命は日々風に散りゆく葉の数に比例しているのです。そうです。わたしの人生は秋の暮れにさしかかっているのです。葉は日々散っているのです。かつてそれらが青々と茂っていたころ、一枚一枚が怒りを宿す火種でもありました。生命というのは、つまるところ熱なのだ、とかつて教えていただいたことがありますね。その教えの正しさを実感するたびに胸の奥が熱くなり、両の目は涙にぬれます。わたしの熱は激しさを失いましたが、その代わりに何をあたためることを学んだのです。わたしは今、教えられたとおりじぶんの人生をあたためているのです。こうした朝にミルクティーは欠かせません。そういえば昨日も茶葉を買い忘れてしまいました。これでおそらく三日連続です。さすがにこれはまずいので、今のうちにメモ書きに書いておきましょう。ちょっと失礼」

彼女はミルクティーを一口だけすすると装着していたイヤホンマイクをはずし、机の上に置いたボイスレコーダーの再生と一時停止を兼ねたボタンを押した。指先はかすかにふるえていた。両手で椅子を下げ、よっこいしょ、と言いながら立ちあがった。やわらかい座面のため、彼女の座っていた痕がくっきりと残った。背面にある巨大な食器棚のとなりに設置された小さめの洋風たん笥から使いかけのメモ帳とインクのすくないボールペンを取りだした。骨ばった手の関節や指の細さがより強調された。丈夫な背もたれを支えにしつつ、ふたたび椅子に腰かけた。まったく同じように座ったため、若干もどりつつあった座面のへこみにそのまま尻部を当てるかたちとなった。両手で椅子を引き終わると大きく息を吐きだし、一口だけ紅茶をすすった。手元に目を近づけては離しをくり返し、焦点をうまく合わせてから「紅茶 茶葉 一」としるした。文字はどれも髪のように細く、ことごとくの線はわずかに波打っていた。メモ書きの上にボールペンを置くとすこし遠くにやり、ボイスレコーダーのボタンをもう一度押した。

「目覚めは言うまでもなくよかったです。計った血圧も正確な数値は忘れましたが、特に問題なかったはずです。今日は歯みがきと洗顔をすませたあと、朝餉に味噌汁をつくりました。朝餉に味噌汁をつくるのはずいぶんひさしぶりだという気がします。ここのところ朝食はバタートーストと目玉焼きとコールスローという定番のあれがつづいていましたから。時おりこうやって味噌汁が飲みたくなるのはやはり日本人だからでしょうね。あの人がいなくなってから一時は、味噌を見るのも嫌だったのに。不思議なものですね。ひさびさに作った味噌汁は田舎味噌が古くなっていたせいであまりおいしくなかったですが、人参や大根なんかの根菜とお揚げを入れたおかげでそれなりにうまくまとまりました。あの人は麩と若布と白葱以外必要ないと言ってましたけど、わたしはああいう具沢山の方が好きです。おそらく夏バテのせいなのでしょうが、だめですね、今朝も例のごとく一人前以上残ってしまったので、あとでタッパーに移して明日の朝にいただく予定です。野菜はちょっと大きめにカットしました。その方が歯や顎にもいいとテレビでも言っていましたし、その方が好きなのです。今でもなんでもじぶんの好みに合わせてつくることができる、もうすっかり習慣となった料理のよろこびを、わたしはこうやって今もあじわうことができます。ああ、そういえば、言っておくべきことがあったのです。ちょうど昨夜の残りの煮っころがしをあたためながら味噌汁をつくっていた最中、分葱を刻んでいた時のことです。わたしはキッチンの窓越しに夜がしだいに明けていくのを感じていました。大気の変化にともなって、さまざまなものの色やかたちがあらわになっていました。もっとも、ずっと目を向けていたわけではないので、それとなく視線を上げるたびに変化があることをたしかめるだけでしたが。キッチンの作業灯もほとんど必要性を失っていました。が、消すと消すで暗すぎるとわかっていたのでそのままにしていました。窓は開けていたので、外からそよ風と蝉の鳴き声が入りこんでいました。野菜を茹でる鍋からの蒸気や分葱の臭気にまぎれて雑草のにおいがほんのりと鼻についたのをおぼえています。近くの森からキビタキの愛くるしいさえずりが聞こえたのでおもわず笑みがこぼれました。夏の朝はキビタキの鳴き声を聞くことができるから好きだと、もう何度もお伝えしてますよね? キビタキはもちろん見た目もかわいらしいんですが、あの歌うような鳴き声がほんとうにすばらしいんです。」

やや興奮した彼女はここでミルクティーをもう一口すすった。手にふるえはほとんど見られなかった。残り半分弱となったカップの中のミルクティーはすこし冷えはじめていた。

 まだまだ中途。あと一万字弱は加筆したい。三部は割とすらすら書けそうな気がする。メルヴィル『漂流船』を読み終わった。メルヴィルはあまり良い印象のないアメリカの作家の中でも好みの部類に入るとおもった。白鯨もいつか読みたい。今日はココペリで酔っ払った。もう少し小説を書きたかったが、これだけ酔ってしまうとたぶん駄目だろう。若干気持ち悪くさえある。寒すぎて体調を崩した。寒さに年年弱くなっている、気がする。外に出るべきではなかった。録画したベイブレードバーストゴッドを観て、かるく推敲してから寝る予定。ほんとうは本日紛失した運転免許の再交付の手続きをする予定だったが、疲れと怠惰と作文欲求を言い訳に行動をおこさなかった。頭がいたい。