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 それなりの文量の日記を書いていたが突然のシャットダウンによりおじゃんになった。この日のハイライトは名古屋のジュンク堂東浩紀存在論的、郵便的――ジャック・デリダについて』柄谷行人『哲学の起源』を購入したことと、名古屋観光をおもったほど楽しめなかったことと、今年は下半身を鍛えると決めてスクワットを行ったところ両腿がその日のうちから筋肉痛になったこと、それくらいな気がする。

母が最近友だちと疎遠になりつつあると言っていた。じぶんは友だちの非常に少ない、もしかするとひとりもいないのではないか思えるくらい交友関係のすくない人間なので、口をはさめることではないが、聞けば人付き合いを避ける理由がこちらとほとんど同じなので、こりゃあかんわと思わず笑った。でも、Tも母も仮にも友だちと呼べるひとがいるのだから、大切にした方がいいと真剣におもう。じぶんは家族以外にまともな人間関係を構築できない、できたとしても偶然でしかない、そんな性格をしているので、とくにそうおもうのだ。地元に帰ってもだれとも連絡を取らず、いや取る手段さえなく、ベランダから星をながめながらさみしさと同時に満足感を得るような、そんな人間になると十年前のおれはみじんも想像していなかった。十年前の勉強机にPCを置き、小説やブログをカタカタやっていると、何か妙な気分になってくる。覆水盆に返らず、ともちがう感覚。いや、その慣用句が持つ残酷性を半分いだきつつ、それでも結果としての今現在を肯定するような、そんなポジティヴなあきらめにも似た感覚。だれかを、あるいはじぶんを大切にするとはどういうことなのだろう? その疑問を持ったまま、今年を生きていく。ひとつわかっているのは場面場面でだれかにやさしく接することではない、ということ。それは欺瞞だ、すくなくともおれにとっては。必要なのは俗と聖の、道徳と哲学の、社会と個人の、生と死の、料理と小説の、共同体感覚と孤高の、生活と人生の、ゆらぎつづける曖昧な汽水域で立ちつづける努力をすることだ。母にも語った、おれの人生は汽水域に立つことだと。どこかに深く潜るだけの気概と才能がない人間でも生きづらさを払拭できると、持つ努力をしない人間でも他者にすがらず自己肯定ができるはずだと、たぶん信じたいんだろう。どこにでもアクセスし、帰ってこられる場所を構築すること。じぶん自身のふるさとをつくること(実家に帰るたび、なつかしくはなるが、ふるさとだとは感じたことがない)。真理はたったひとりでしか辿りつけない。もうとっくにわかっている。たぶんまだおれは、だれも大切にできたことがない。

とりあえず今年は日記とスクワット。上半期は今の小説と就職、引っ越。