仮題『浮いた熱の中』冒頭 

マスクをしていると視界がかすむのは吐く息のぬくもりで眼鏡のレンズがにごるからで、視界がかすむとなんだか息苦しくなるような気がして、マスクを下あごまで下げると、いつも空気ってこんなにも冷えていたんだっけ、となる、この時期、外にいると。

朝からくもっているせいで今が何時かよくわからない。いや、時計を見ればわかるんだけど、感覚が理解してくれない。十一時? なんで? 小田原城天守閣から見た景色、南伊豆の方の空は、あんなにもはっきりとピンクがかっているのに。それでまたよくわからなくなった。防寒しすぎたせいで寒いのか暑いのかもよくわからなくて、頭の中は世界中のどこよりもぼんやりとしていた。それはテレビで見た南国の愛に似ていた。テレビで見た南国の愛は、いつもおだやかで、のんびりとしていた。だから天守閣の中ではみんなに迷惑をかけていたとおもう。たぶんそうだ。でも、あの時も今もぜんぜん気にしてない。南国の愛を急がせることはだれにもできないし、周囲の人たちだってほんとうはそれをのぞんでいないのだ。靴下が厚手なせいで階段をすべって踏みはずしそうになった――あれ? 靴って脱いでたんだっけ? あれは犬山城の話? まぁいっか――太い木製の手すりをおもわずにぎりしめた。よわい握力だったけど、その時はそれが限界値で、最高だった。ふだん、何かをおもいきりにぎりしめることってそんなにない、ってこともないけど、風邪をひいていれば手に力を入れづらいのは道理で、ほらごらんとおりです、かるくしりもちをついて、にぶい痛みはあったけれども生地のあつさにすくわれたか、にぶさは一度も牙を見せることなくにぶいままじりじりと引っこんでしまった。それは頭のない蛇の後退のようで、そんなものを見たことがあるのか問われれば、もちろんないけど、夢の中のイメージやあいまいな映画の記憶から引っ張ってこられるのは自前の自由な思考のおかげです、ってだれに自慢するでもなく得意になるのは酔っぱらいのようで質が悪いでしょう、そそ、酔ってりゃあだれだってタチが悪かろうて、と赤ら顔にからまれたのはずっとずっと前のことだったんです。からまれたと言っても直接的な暴力を振るわれたわけではなく、むしろ反射的に顔面を殴ってしまったことをかんがみれば被害者はむこうだったのかもしれないが、すでに無効となった事項をいつまでも引きずれないのをいくらむごいと非難されようとも自己責任のひとことで、あらゆる自己と事故を接着するヤクザのやり口で、どうにか切り抜けてしまった旧い記憶はすべて嘘っぱちのドンパチさわぎかもしれないとの可能性を示唆されたのはまだ最近の出来事で、それ以降何かしらの「身辺調査」が行われているはずだけど、結果の報告もかしこまった集金の呼び声も聞くことはない。それはそうと。

吐く息でかすむ視界はふくらんだりしぼんだり、象の心臓のようだ、とおもっていた。歩いていた。天守閣から広場へとつながる石階段は途中、するどく折れる箇所があり、ちかくには桜の木が幾本か植わっている。しかしあいにくに冬とあっては景色に可憐なうすべに色を散らすこともかなわない。かなわんなぁ、と赤松の近くのベンチに腰掛けたおじさんがはっきりと口にするのにおどろいてしまった。視線をむけてしまったが、あきらかにひとりごとだった。おじさんは背を丸めたままふかくうなだれていた。足元を見ているのか、目をつむっているのかもよくわからなかった。顔はいつかの酔っぱらいのように赤かったけど、たぶん酔ってはいなかった。過剰におどろいてしまった理由はただひとつ。亡くなった祖父のものと発声の妙もふくめ、そっくりだったのだ。もう一度声を耳にしたかったけど、わざわざ話しかけるのもちがうとおもい、そのままとおりすぎた。左目の上のあたり、眉間とこめかみのあいだに頭痛がずうずうしく寝ころがっていた。眼球の上のほうのくぼみを、まぶたと呼ぶには上に位置する皮膚ごしに押してみてもたいして効果がないのは知っているけど、ついやってしまう。悪化するわけでもないので特に意味のない行為だけど、つよく押すと視界にうつるものが二重三重になってずれ、色も単調になるのがどことなくおもしろくて、ついやってしまう。だいだい頭痛が寝ころがるときはこの位置かこめかみのどちらかなので、左目の上の皮膚はそこそこの頻度でつよく押されている。しみになったらどうしよう、昔ふとそうかんがえて、しみについてインターネットで検索したところ、主な原因は紫外線とあったので、すごく安心して、頭痛もないに例の位置をつよく押してやった。押した分の痛みは頭痛とくらべればかわいいもので、あとくされもないから、こういう類の刺激はからだにどんどん与えるべきだろうと昔はかんがえていた。しかしどうだろう? 

 

はーい、おでかけします。

この文章はもうすこしながく続けられそう。もしかしたら短編くらいの量までもっていけるかも。