雑記

一週間ぶりの休みは半休で、この一週間はほんとうに大変で、毎日へとへとで、きのうもTの沸かしてくれた風呂に入った方が心身的に絶対にいいとわかっていたにもかかわらず、どうしようもない疲れのせいで服もそのままに寝てしまって、今朝ももっと眠っていいはずなのに早く目を覚ましてしまって、今もこんな文章を書かずに昼寝をしてしまえばいいのにYouTubeのCHILL OUT(日本語ラップMIX)を聴きながら適当にタイピングしている。

書こうとおもったことは他愛なくて、自由は非力だということをつくづく実感した二十代前半には毎日死にたくて、じぶんは三十まで生きてないだろうと確信していたにもかかわらずもうあと二か月もすればその歳に達してしまうことの滑稽やむなしさ、過去を見つめるたびにあふれるどことないやさしさ、愛おしさ、せつなさ、そんなしょうもないことで、今はほとんどなくなった死への衝動はどこへ行ったのか、消化(昇華?)したのかと考えると、それはぜんぜん立ち消えてなくて、ただ仕事やら社会やら人間関係やらに伴う責任にしばられて発動できない状況になっているのだとじぶんではおもう。この状況はほんとうにありがたい。じぶんの存在意義や非存在意義について考えると気が滅入ってしまう。端的に言ってこの世にいる意味がないと過去と同じ結論を出してしまう。だからじぶんをしばることはおれにとって必要で、そうした拘束を他者や社会は当然のようにたやすく求めてくる。その手をおれは拒まない。拒みたくない。けれど、今週のようにくったくたになるくらい忙しいと逃避したくなる、つまり責任をほうり投げてしまいたくなるのも事実だ。絡みつく手はいつでも振りほどけるのだ。おれの意志で。覚悟で。しかしおれは自由は非力で不安と一心同体だと身をもって知っているから、ほどほどの拘束をのこしてほしがっている。これは弱さか? ずるさか? 兎角いい匙加減の自由が欲しい。せめて本くらい読ませてくれ。風の気持ちいい日に窓を開けさせてくれ。季節の野花の香りをかがせてくれ。氷の溶けてうすまったアイスコーヒーや紅茶を飲ませてくれ。

自由が丘の和食屋(GWと命名)ではたらきはじめてもう二か月になる。日に日にじぶんが将来やりたいこととのギャップをつよくしている。けれど勉強になるのは事実で、この二か月で料理人としてはかなりまともな方向へと軌道修正してもらった気がしないでもない。でも、ちがう。なにかちがう。いつもそうおもっている。正直、いつまで今の店舗にいるかも、今の会社にいるかもわからない。人生は一度きりで、体裁や他人からの評価なんか気にしていたらあっという間に大切な時間を無駄にしてしまうから、もっとまじめに、これからのことを考える必要がある。おれは何がしたいのか? その問いはもうとっくに出ている。じぶんにしか造れない店を、場所を、空間を造る。すべてはそのための準備だ。じぶんにしかつくれないもの、というのは小説を書いていても、つよくおもっていたテーマで、最後に書いた『四つのルパン、あるいは四つ目の』なんかはその意識を全面に出した気がする。というか今気になってあれを送った第十回小島信夫文学賞の結果を見てみたら案の定ダメだった。残念、無念。まぁそんなことはどうでもいい。将来のことを考えて不安が減ったのは、たぶん手に職がつきはじめている、というかある程度はついたからだろう。しかし、それは同時に将来をおもい描く際の空想やら妄想やらが削がれているということでもある。二十代前半の、あの不安と自由がひどく恋しくなった。あのひりつくような、油断すれば干からびるような毎日の中で頭に禿をつくったり身勝手な恋をしたり笑ったりしていた。あの頃の自由は完全な混沌で、そこに唯一あったゆるい規律は小説と向き合うことだった。けっきょくおれは小説と向き合えなかった。逃げたのだ。横浜に移動してからは小説と料理の二足の草鞋を履いてじぶんの営みとしてきた。それはどちらもほどほどに、中途半端にすることに他ならなかった。ただ、両方ともをここまでやった人間はなかなかいないだろう、とはおもう。しかし、そんなことはどうでもよくてどちらも中途半端なのは事実だ。そしてその事実は重い。そして今は料理と向き合うこと求められている。なかば強要されている。必要なのは痛いくらいわかっている。よろこぶべき事実なのはわかっている。でも、逃げ出したくなるのは何故だろう? 学生時代あるいはフリーター時代、散歩やサイクリングの際に目にしたうつくしかった風景のいくつかが脳裏によみがえる。ああしたみずみずしさを求めることは身勝手なのだろうか? いつだって新鮮な気もちで生きていたい。よころびを感じて生きていたい。善く生きていたい。生き方は、まったくもってひとつではない。自由は行使するのではなく、手元にあることが重要なのだ。自由のための金、金のための自由。野に咲く花のように矛盾したおもいがいつもはげしく交錯しては散る、時間というのはそれをただ無常にかぞえあげるだけだ。あーあ、出勤時間までマンスフィールドでも読もう。