雑記雑文のつづき

「また振り出しに戻るような気がして まだ降りだした雨はやまない」と最近知ったカフェインと恋人についての歌の冒頭ばかり口ずさんでいる。休日にクーラーの効いた部屋で何かしらの文章を書こうとしている。すこしだけ曇っているけど外は暑くて、耳をすませば弱々しい蝉の声や風にそよぐ隣家の竹葉のここちよいざわめきも聞こえる。もちろん向かいのマンションの工事の音も。こんな暑い中で作業をするひとたちは本当にえらいとおもう。それだけでだれかのすごく褒められていいはずだ。令和初の夏は冷夏だとニュースでは言うけどぼくにとっては十分暑いし、たぶんそれは外で働いているひとたちにとってもそれはおなじだとおもう。窓の外に目をやればさっき干したばかりの洗濯物がゆれている。隣家の竹は長身痩躯で、ぼくたちが住む二階建てのマンションよりもずいぶんとたかい位置でゆらゆら頭を振っている。

「我がやどの いささ群竹 吹く風の 音のかそけき この夕かも」

大伴家持のこの歌をおもいだした。正確にはおもいだしてからインターネットで調べた。インターネットはここ何十年かずっと偉大で、これからもっと偉大になっていくんだとおもう。それはきっと人間を超えて。人間はじぶんたちの神様をみずからの手で創ろうとしているみたいだ、とよくおもう。それはきっと社会の話、法律の話、あるいは宗教の話。そんなことはどうでもいい。そんな死にかけのカミキリムシみたいな顔しないで。

今は午前中で、まだ黄昏るにはまだ早いけど大伴家持もぼくも竹葉のざわめきを聴いて何かしらの感慨にふけったみたいだ。それはいいことのようにおもえる。歴史がほんのりとおもたい。歴史はぼくたちを通底していて、それは日常の細部にまで力をはたらかせている。ぼくはよく選択されなかった過去のことをかんがえる。そちらが選択されていれば現在は……と想像するのではなく、選択されなかった過去が確固としてあったこと、そのうえで現在の世界が成り立っていること、それがすごく不思議なことのようにおもえる。奇跡のようなバランスだとさえ感じる。ぼくがこうしてだれに向けるでもない文章を書いていること、カフカやヴァルザーの小説ないし散文が日本語訳されて多くのひとたちに読まれていること、あの子がもうすぐ家に来てくれること、Tが嫌な職場で一生懸命働いていること、ぼく不在の職場が今日も当たり前のように営業していること、外の工事の音がこんなにもむなしくて力づよいこと、日曜に選挙があったこと、PCの横に使いかけのラップとティッシュとコーヒー粉(レギュラーコーヒー400g/リッチブレンド)と紫キャベツが無造作に置かれていること……そして去年渋谷の映画館であの子と観た濱口竜介寝ても覚めても』の主題歌tofubeats『RIVER』がこのPCから流れはじめてぼくはおもわず鳥肌を立ててしまう。それはたぶん切なさのせいだった。イントロのピアノの音がすごく愛おしくて。

原作の柴崎友香の小説がすごく好きで、おそらく十回以上読んでいる。そんなことはどうでもよくて、あの映画を観終えて当時住んでいた横浜に移動して夕食を行きつけのクラフトバルで摂り、それからほろ酔いの状態であの子に告白したこと、彼女を自宅へと送る態での散歩中で、バス停の前で前ぶれもなく立ち止まって脈絡もなくことばを口走ってしまったこと、そちらの方が重要な気がする。重要? だれにとって? 知らない、何も知らない。眠たいのか腹が減っているのか、寒いのか罅のはいった肋骨が痛むのか、肩が凝っているのか今のじぶんに音楽が必要なのか、そもそも文章をつづることに何の意味があるのか、メモをまとめることや献立を考えることから逃げているだけではないか、やることをおざなりにして時間をつぶしているだけではないか、何もわからない、正確な判断などできない、できるわけがない。今は足がつりそう。とにかく時間がない。日本語ラップでも口ずさもう。話はぜんぶそれからだ。

まるで音楽の中で音楽のことを語るかのようだ。要はどの口が何かを言うかってこと。それだけ。

 

 

 

説明しがたい感情、一言で言い表せない感情というのはたしかに存在するはずで、そうしたものを語るにはその感情が生まれる背景やそこに至るまでの過程を丁寧に描かなければならないはずで、こうした七面倒な仕事を経ないと「説明しがたい感情」を炙りだすことはどうしてもできない。筆者自身も筆舌に尽くしがたいと感じているからこそ直接的に書き起こすことができず、その脳内のイメージを物語や文体(本来ふたつを別けること自体間違っているのではないか?)に宿し文字で間接的に、具体的な描写を交えながらも本質的にはきわめて抽象的なものを彫刻していく。小説における芸術性とはこうした営みから発生するものだと率直におもう。

だから、ぼくの書くものはもはや小説ではないし、もちろん芸術でもない。

ぼくはただじぶんと会話しているだけだ。じぶんが何を欲しているのか、何を考えているのか、何に満足して何に不満を持っているのか、文章を書いているとそうした自問自答を自然と脳の片隅で行ってしまう。そして何かしら書き起こしたことで、気持ちに何かしらの整理をつけ次の段落へと移行する。

要はごまかしなのかもしれない。しかしぼくには嘘でもつかないと、何かをごまかさないとやっていけない、という気もちが常にあるのも事実だ。ここに事実と書いたことが事実だと保証するつもりなんてぼくには一切ない。それよりも書いておきたいのは、ぼくがじぶん自身についてあまりにも未知であることだ。ぼくはじぶんのことをろくに知らない、とよくおもう。じぶん自身の連続性や歴史を感じてハッとする瞬間もあるし、それ自体が感動的だと胸を打つことだって多々あった。それでもそうした実感は基本的に生活の中にふかく埋没していて表面にうかぶことはほとんどない。これはさみしいことなのだろうか? ぼくにはそれさえわからない。未知と既知のちがいもわからず、道にまよったようだと口走りながらただ疲れていて、既知なんて百害あって一利なしだと適当におもったことをかさねて口にする。風呂場のこもった空気に反響するじぶんの声を濡れた耳で聞いている。シャンプーの残った髪と背中にはどうか冷水とあたたかいタオルを。

既知は害、そんなことがあるだろうか? どうせみじかい命を燃やすだけの人生だ。異常はない。罅のはいった肋骨をかばうせいで腰と背中が痛い。いじめ甲斐のない身体。まったくもって吉じゃない。いいことだって少ないし、子どもの頃にTとつくった裏庭の秘密基地なんてもうとっくにない。知らないひとたちが住むアパートに様変わりしている。そう、気づけばもう夏に変わっている。甲子園に出場する高校が全国各地で決まりつつあると名前の知らない報道番組で昨夜知った。吉本興業の芸人に叱咤激励のことばを送る街中の通行人たちの声と顔も数分後には報道されていた。ところで報道ということばには何故「道」という文字が使われるのだろう? 剣道、茶道、弓道、柔道、こうしたものを挙げながらTさんが日本人は何でも道にしたがる、そこに道徳的なものを重ねて追究したがる、こうした旨を彼の語彙でいつかのブログにつづっていたことをおもいだした。この記憶だって定かじゃない。じぶんのたどってきた道をただしく振りかえることができない。それは小説でたとえるなら前までの段落の内容を忘れてしまうようなものだ。もちろん大げさな言い方だが、だからこそ、であるかして、ぼくはじぶんを物語化することができない。物語のちからは強固で、この複雑怪奇で不条理な現代社会において自己肯定をするのに有効かつ危ういツールであることで十分承知しているのだけど、それをうまく駆使することができない。それはたぶんかなしいことだ。踊り方を知らない曲でただしい身ぶりを要求されているみたいだ。また話がそれてしまった。とりあえずぼくは報道ということばに「道」という文字が使われることに違和感をおぼえる。これは本音だ。だれもが井戸端会議に夢中になって「じぶんことばかり考えるのが普通らしい」と好きなラッパーも歌っていたように、ぼくもあんたも醜悪で、俯瞰で見た風の素ぶりと口ぶりでじぶんの科白に酔っている。酒があればなおのことで、悪酔いしたひとは社会に与えられた役割をますます滑稽に演じる。醒めたふりしたニヒリストは安い感動にだけ涙をながし、それもじぶんのためだと知りつつ生活のすべてと性欲を排泄しながら思考の八割を停止して今日を生きている。金がすべてだと思い込もうとしている。ゆたかさなんてどこにもないとじぶんに言い聞かせている。「おれは忙しいんだ」「あたしだって」「昔はよかった」。耳をふさいだって声が聞こえてくる。今日もだれかが孤独に泣いていて、貧しいひとは瞳の奥で憤りを燃やしている。ぼくだって燃やしている。嘘と欲望を燃費のわるい燃料として燃やしている。

「もう切ないとは言わせない」

だれに? ぼくはぼくの口からしかそのことばを聞いたことがない。あるいはいつかの映像の中。目にうつす液晶画面の画質は年々向上している。