むかし書いたもの①『やわらかな朝は亦』

 一

 

路上。目の慣れる速度はそのまま夜の明け行く速度と言える。いつからかはじまっていた夜と朝の汽水域で星々はあわい大気におぼれ、音もなくしずんでいく。不眠の気だるさは解消されないものの、夢かうつつかといったあやうい浮遊感はとうに立ち消え、山脈の果ての果て、広い空の片すみでしずみそこねた白浜色の月が中途半端に残っている。エアガンの銃痕のようだった。幼いころ、あれは地球の影だとだれかから聞いたことがあった。長らくそれを信じていていた。ぬるい風が前髪をゆらせば頬をなでる何本かがくすぐったく、もとよりひらけていた視界がさらにひらける。意味のない嘘を信じる季節があまりにも長かったのもしれない、そんな科白めいたことをふと考えたのは思考がまだぼやついている証拠だった。おおきく口をあけ意図的に猫を真似た欠伸をする。喉からもれる野太さはまちがえようもなく人間の、さらに言えば男性のものだった。どうにも聞きおぼえのない声だとおもえた。まばたきと共に両目からすばやくこぼれた涙をTシャツのひろがりきった長袖でぬぐう。

早朝。ひかりがしだいに熱を帯び空もうっすらと白みはじめている。山肌に沿ったゆるくおおきなカーブを超えると目の前には麓の、さらに視線を奥にやれば盆地の悠然とした景色が立ちこめた霧のうちでぼんやりとかすんでいる。一帯の山々の輪郭も今やはっきりとし、麓へと向かうにつれて増える民家や常夜灯の明かりは盆提灯のようなつつましさをうしなっていたものの霧のうちで大気にほのかな染みをつくりながらひかるさまは盆地全体を、出港前の巨大な船と見立てることを可能にしている。

「あそこの窓からリバー・フェニックスが顔をだせば完ぺきやんな」

かすれた独白は冷たくしめった空気にさっと溶け、鶯のすんだ鳴き声を喚起した。鳴き声は伝染し、ガードレールの一歩外からきわめて濃密に展開する森を雷光のように疾走し、やがてどこかで途絶えた。霧の晴れる気配はなく、十数分後にひかえた来光を前に他の場所がいっそう明晰になるだけ、ふかくおおわれた部分の不透明はいやますばかりだ。そのやわらかな変化に目を凝らすうち盆地を巨大な船と見立てることは不可能となっていた。

今年買ったばかりの安物のサンダルは鼻緒の部分が接合もふくめあらく製造されているため親指と人差し指の間の皮膚が歩くたびに痛み、擦れて赤紫色になっていた。履く位置や足の置き方を工夫しても焼け石に水、いっそのこと血が出れば痛まないのではないかと馬鹿なことを考え鼻緒に指の間をきつく押しつければ苦痛で眉間に皺が寄った。数分前に足を止め、しばし間を置いた分だけ痛みはあざやかになっていた。出血には至ってないもののそれも時間の問題だとおもえた。ふだんの大股ぶりを自覚させる足さばきでこまかくゆっくりと歩をかさねた。昨年の秋の登山をおもいだした。

あの時、両足につま先から踵まですき間なく痛みがあった。きちんと慣らすことなく使用した新品のトレッキングシューズとの相性が最悪だった。顔見知りのスポーツショップの店員にも足しげくかようバーで出会った名前も知らない自称アルピニストにも、トレッキングシューズとインソールには気をつかえ、とさんざん注意されていたにもかかわらずそんなへまをやらかしたのは慢心と言うより他なかった。足裏の異変を感じはじめたのはまだ二合目だった。それなりに標高は高いものの、さほど登頂のむつかしい山ではないと勝手な先入観を持っていた。おもえばあそこで引き返すべきだった。その判断を誤ったのもやはり慢心からだった。ピッケルで身体を支えながら足をはこぶ小細工じみた技術もしだいに険しくなる道では通じなくなり、ひとり苦痛にうめく時間がおとずれた。足元でこともなげに群生するミヤマダイコンソウの黄色い花弁に顎をつたう汗がぽとりと落ちた。景観をたのしむ余裕も、首から下げたカメラを使う余裕もまるでなかった。疲労と苦痛に限界を感じて足を止めたのは小休憩をはさんでしばらく歩いた、わりに平坦な登山路の上だった。汗をかきづらい体質にもかかわらず肌着が表裏ともびっしょりぬれていた。それなりに担ぎ慣れていたはずの登山用リュックサックがかつてないほどに重く感じられた。足裏そのものがガラス板になってしまったかのような、歩くたびにそれらがひび割れていくような、そんなにっちもさっちもいかない状況ではもはや笑うことしかできなかった。空を見上げると秋の高い空がふだんとほとんど変わらない距離感で認識された。八合目付近まで来ていたはずだが、とふしぎにおもいながら頂へと視点をうつせば山旗雲のかかった残りの道のりがとほうもなく険しいものに見えた。いびつに尖った鈍角の頂上はみぞれ色の雲群から顔をだし、容赦なくふりそそぐ日光をたたえた青空の下で泰然としていた。

ぽかんと口を開け肩で息をするみずからのちいささがまざまざとおもい知らされた。振りかえって数分前に小休憩を取った場所へと視線をやれば、ほんのすこししか前進していないことがおのずと理解された。前へ、すこしでも前へと仕事にのめり込むかつての同窓らの上昇志向に露骨な嫌悪をしめした飲み会での暗澹とした気もちがよみがえり、おれもあいつらも結局変わらないではないかと自嘲の笑みがもれ、おくれて涙がにじみそうになった。じぶんだけが人生に悩んでるなんておもうなよ、おなじような文言を浴びたのは一度や二度ではなかったが、ことさらきびしくひびいたのはかつて親しくした時間が長かったからだと、飲み会での長嶋のしずかな怒りに満ちたまなざしを、つづけてアパートの居間で膝をかかえて泣くいつかの里実の姿をおもい浮かべた。紅葉に追い打ちをかける秋風がきびしく頬を打った。ねばり気のない汗がとめどなく流れる背中は冷たくなることを忘れたように熱を持ちつづけていた。

あれから引き返すまでそう時間はかからなかったはずだ、そんなことをおもいながら目の前の道を歩いていた。ひっそりかんとした二車線道路では人はおろか自動車さえ通らず、中央の点線を踏み歩くことに罪悪感も高揚もなかった。夏の平坦なアスファルトの上で秋の登山をおもいだすのは馬鹿げていると感じつつも笑う気にさえならなかった。

下山をはじめると足裏は傾斜をふんばるため余計に痛んだ。人気のない東北の山を作為的にえらんでおきながらだれとも出会わないことに苛立つ身勝手さを、身勝手だと知りながら呪いのことばをひとりごちた。しかしその元気も日が暮れはじめる頃にはうしなわれていた。

やっとのおもいで連泊していた宿へと到着し、すぐに足裏の手当を開始したもののその時にはすでに人当たりのいい女将が顔をゆがめるほどの怪我となっていた。土踏まずから踵のもっとも硬い部分まで、また指の付け根から足刀部の中ほどまで皮は剥け、ことごとくの指だけでなく足そのものが赤く腫れ上がっていた。全身に微熱が回っていたようだが、本人としてはさほど意識されなかった。

靴だけでここまでの状況になるものか―そんなそんな、たかが靴、されど靴ですよ。

ふかい眠りの中で女性同士の粘着質な話し声を聞き、目が覚めるとすっかり朝になっていた。身体中の痛みと喉のひどい渇きが否応なしに自覚された。七面倒な人間関係に巻き込まれた悪夢の詳細はすぐに頭から抜けた。当日に帰宅するつもりだったが足裏の調子が芳しくないこと理由にもう一泊することとした。世話好きらしく介抱してくれた女将の、無理強いともとれるすすめが決め手となった。医者に行くべきだと何度もすすめられたが、元来の医者嫌いからやんわりことわった。熱は下がっており、疲労だけが全身にわだかまっていた。登山で怪我をしたことは一度もなかったのに不運に見舞われてしまった、と下山当初はとらえていたものの、時間の経過にしたがい、これまで怪我をしなかったことがむしろ幸運だったのだ、とおもいあらためるようになった。用意された胃にやさしい朝餉(大根と蕪の粥は出汁が効いていて美味かった)を半分ほど食し、歯をみがいて横になると眠気がふたたびおそってきた。ふだんの寝付きの悪さが嘘のようだった。気絶するように眠り、目を覚ますと日はすでに高くのぼっていた。年季がかった振動と音で廊下に掃除機をかけているのがわかった。ふたりの女性従業員の親し気な話し声が断片的に聞こえた。やかましいとは感じず、彼女らも怪我人を気づかいおさえたトーンで発声していた。ふだん冗談でも言い合っているのだろう、折ふしもれる嬌声にも似た笑いがほほえましかった。学生さんはまだ寝てらっしゃるんかな、とこちらのことを学生さんと呼ぶ声にあどけなさを感じ、そちらの方がよっぽどか学生さんらしいではないかと口元をゆるませながら目をつむり、羽布団を自堕落に掛けなおしてはみずからのぬくもりにうもれた。しばらくすると掃除を終えたふたりは去り、足音もなく廊下を歩いてきた女将が部屋の扉をノックし、かしこまった挨拶と共に入室した。昼食のすすめだったが、腹が空かないとことわり、そのまま他の客がチェックインしてくる夕刻まで部屋でだらだらとすごした。里実に帰宅できない旨をメールでつたえたのはその時間内だった。仕事中のため返信はないだろうとふんでいた。節々や足裏はやはり痛んだが、じっとしているのも退屈で、曇天のせいで陽の射さない窓辺によって前日不使用のカメラで蕎麦切色のもの淋し気な景観をおさめたり、日常ほとんど目にしないワイドショーをぼんやりと視聴したり、持参した文庫本にぱらぱらと目をやったりした。じぶんはなんて気楽な身分なんだろう、いつまでもだらだらと学生をつづけて、平日にこうやって縁もゆかりもない田舎でゆったりとした時間をあじわっている、同窓や恋人は今ごろせっせと働いているというのに……そんなことをおもうと情けなさとかるい優越感と、将来に対していだきがちな漠然とした不安が混然一体となりひどくみじめな気分になった。気忙しい木枯らしが窓枠をかたかたとゆらした。なおのことくもりはじめた空に浮かぶ畝雲はどれも速く流れていた。

はっきりした物影のない道路では白線のゆるやかな湾曲がうつくしく際立った。サンダルを打ち付けるようにして歩けば足音が小気味よくひびいた。道路脇からすぐにはじまる、左右で高さのことなる森林から何かしらの生物の気配を感じた。鴉の鳴き声が高い位置からこだますると、別の場所からもそれとおぼしき声がかすかに聞こえた。古着屋で購入したクリーム色の、襟もとのゆるいTシャツと一昨年タイで購入したユニセックスのタイパンツは生地がうすいせいで微風にもよくなびいた。鼻緒と擦れる部分は痛み、とうに完治した足裏に汗をかかせた。振りかえりつつ空を見上げれば来光のきざしとして山吹色やうす紅色がほんのりとしのびはじめていた。その分付近の山々は暗い翳を帯び、よく熟れた茄子のような色をしていた。麓にちかい場所からクマゼミの鳴き声がじわじわと登ってきた。これも鳥にならって伝染するかとおもいきや、ひとつの鳴き声だけがおなじ場所から発されつづけた。人家の合間にひろがる稲田がうす暗い中でも谷風の濃い名残に青々とうねるのがわかった。人気のない畦道、夜行性の牛蛙が眠たげな目でおとなしく重低音をひびかせているのを想像したものの距離があまりにもひらいているせいで何も聞こえなかった。宿泊しているペンションの近くでは牛や鶏を放牧していたが、それらの鳴き声もやはり聞こえなかった。まだあのペンションからそうはなれていないはずだと、ありとあらゆる事象から確信をうばう不眠の、あやふやな感覚の今現在だと知りながらつよく断定した。

畦道と牛蛙のイメージはそのまま祖父の営む児童養護施設での記憶とむすびついた。奈良県吉野郡の辺鄙な田舎にある古い一軒家をそのまま使用しつづけてもう云十年になると聞いた。小学生の時分から夏休みのうちの数日をそこで過ごすのが習いとなっている。四方を田畑や小川に囲まれているため牛蛙の大合唱だけでなく青蛇のするどいまなざしや痩せた狸の狼狽とも遭遇した。生活用水を兼ねているものの透明度の高い小川ではウグイやオイカワ、ドジョウ等が優雅に泳いでいた。日によっては他の子どもたちに混じって柄の長い網で捕まえ、まずしい食材の足しとすることもあった。一度、あれも早朝だったか、特大の青蛇が川の流れに逆らって泳ぐのを目撃したことがあり、その時の記憶は鮮明な映像として脳裏に焼き付いていた。全身をくまなく使ったなめらかな蛇行は生物の運動というより何かしらの記号のようだった。無言でせせらぎをかき分け、かたくなに前方を見すえつづけるさまは清らかですらあった。だれか呼びに行こうとしたが泳ぐスピードがあまりにも速いため、下手に身うごきをとることができなかった。青蛇はやがて二又にわかれた草むらのあたりで見えなくなった。にらまれたわけやないのにの、と朝餉を取る祖父の笑う意味がわからなかった。実家のある大阪の住宅地ではまず目にしない生物とたわむれることが休暇明けの自慢となる年頃を過ぎても、奈良へと足をはこぶのを止めようとはおもわなかった。

年々老けていく祖父はかたちのきれいな坊主頭で、弁柄色の和服がよく似合った。柄シャツとジャージに身をつつむ強面の男性職員は口下手だが、根のやさしい熱血漢だった。長年の交際を経て男性職員とついに籍を入れた女性職員は素朴な笑顔の裏に芯のつよさと母性を同居させていた。まばらに身長を伸ばしつづける年下の子どもたちは男女問わず、また知り合ってからの年数も無関係になついてくれた。顔を合わせれば、それぞれ表現はことなるものの再会をよろこんでくれた。よろこんでくれることが素直にうれしかった。今年も二週間後に門をたたくと告げてあった。里実も一緒に行きたいと言っていたが、彼女の仕事に都合がつくかはまだ不明だった。両親より先に祖父と恋人を会わせることにぎこちなさはあったものの、手前勝手にはかった親和性で比較すれば当然かと腑に落とした。

何故あそこに行きたくなるのか。行かなければならないと若干の義務感をおぼえてしまうのか。自問自答はくり返してきたし、男性職員にも父親にもことなる文言でたびたび訊かれた。特に父親は回数をかさねるほど非難の色を濃くした。父親が生家でもある児童養護施設のことをよくおもっていないのも、祖父との間に溝があるのも幼い頃から肌身で感じてきた。金と仕事を何よりも尊び、現状の生活に耳かき一杯ほどのうたがいさえいだかない性格―父親の世代では常識とされる認識を煮つめ、凝りかためたような人間だと思春期以降には解釈していた。いつまで学生やっとるつもりや、正直な、おれにはおまえの考えとることがわからんのや、何がそんなに不満なんや、目を緋色に充血させた父親の直視がふかく胸に刺さった。酔いの助長した怒りをかろうじて押しこらえる口調での問いかけに何も返せないのがふがいなく、きつく握ったこぶしのうちで故意に爪を立てた。

なんでこんなに生きづらいんやろ、なんでみんな普通に生活できるんやろ、おれがおかしいんやろか、今年の三月に挑んだ雪山登山の際にしろい息を吐きながらひとりごちたことを、口にはしてないもののおなじ強度でおもい直していた。あの日も今現在もひたすらに歩くことで漠然と何かを流している感覚があった。秋の怪我があったせいか、里実は出発前日までつよく反対していたが、当日の朝には無理につくった笑顔でおくり出してくれた。お願いだから無事に帰ってきてね、そう言いながら涙にぬれる目元をかるく押さえる姿が印象的だった。里実さんはおおげさやな、そう言いながら笑い、頭をぽんぽんとやさしくたたいた。かたく積もった雪面にアイゼンやピッケルを突き立てながら、あわい輪郭の光景をファインダー越しでとらえながら何度も里実のことを想った。そもそも雪山登山と銘打ちつつも登頂するつもりなどみじんもなかった。装備はふつうの登山とことなっていたもののあくまでも写真を撮ることが、さらに言えばひとりでだれもいない雪原を歩くことが目的だった。素人に毛が生えた程度の自身の実力は充分にわきまえていた。風のない曇天のなか音もなくふりしきる雪、一面あやしくひかる月白色の雪、それらをまとう樅林の合間からあざやかな人参色をたたえた狐が凛とした表情でこちらを見つめていた。藪から棒の、幻想的な出会いに足を止め、しばし放心して視線を交わした。絶好の被写体を前にシャッターチャンスをみすみす逃していた。相手が樅林へと一歩あとずさった際にようやく首から下げたカメラの存在をおもい出した。しかし時すでにおそく全身をとらえた写真は一枚しかとれなかった。しかもあわてて撮ったためピントもうまく合わせられなかった。これじゃあ写真家なんて自称できるわけもないとみじめさもなく、晴れ晴れとした心境でみじかく笑った。指はかじかみ、あらためて息がしろかった。積った雪と空の色が同一なため景色や物の境目が曖昧だった。

「一郎、おまえはおまえのしたいようにせぇ」

一年前の祖父のことばがふいによみがえった。父親との関係に愚痴をこぼした際の、応答とも慰めともつかぬことばだった。雨の日は傷口が今でもうずくわ、業がふかいんじゃ、と右頬の刀傷―かつて養護していた男子高校生が起こした園内トラブルの際に受けたものだとうわさに聞いたが真偽のほどはわからない―をさすりながらなおのことひとり言めいたことを口にすれば、返事をするのも無粋におもえた。いくら考えどもじぶんのしたいことというのがまるで浮かばなかった。夢も希望も特別なかった。あてどなく生きるのに苛立ち、かといって将来のためと割り切って就職に有利な勉強をすることも生来の怠惰な気質からこばんだ。

「お前は頭で考えすぎなんや、良くも悪くもの」

屋台のおでんと熱燗で鼻っぱしらや頬を赤くしながらも、虚空にするどいまなざしを向けつづける男性職員はぶっきらぼうに言い放った。誠さんのやさしさはここの大根よりしみしみやの。柄にもないことを口にすれば、視線を向けることなく頭をたたかれた。電動のおでん鍋から絶え間なく立ちのぼる湯気が顔をぼうっとあたためた。いじめ煮の状態をうまく保った鍋はくつくつとちいさな音を立て、わずかに沸騰していた。背を丸めて腰かける男性職員のサングラスが何故くもらないのかとふしぎだった。威圧的にも見える貧乏ゆすりが苛立ちではなく寒さに起因した所作だと知っていた。おおげさな咳ばらいのあと、こちらの猪口へと無言で酒をくみ、それ以上説教じみた話をしないところがありがたかった。大根だけでなく、あつあつの厚揚げや牛すじにもよく味がしみていた。カメラで小銭をかせぐ二浪中の大学四年生、将来が見えないと里実が嘆くのももっともだと猪口をあおった。なんしか婚約おめでとう。おう。冴子さん幸せにしてやってや。だれにもの言うとるんじゃ。たがいに顔を見ず声を交わした。

「一郎くんはただ逃げてるだけじゃん。もっと向き合ってよ、わたしとも」

ヒステリックに泣きわめいた数時間後にはきまってあちらから謝罪してきた。きつく肩を抱きしめながら愛のことばをささやいてきた。甘やかな、どこか焦燥をあおる愛撫に身をまかせれば男女の関係を転回させるような浮遊感が生じた。この孤独に満ちた世界で理解し合える唯一の存在なのだと相互陶酔し、なしくずしに性へとおぼれた。そうした夜にはたいてい雨がふっていた。白藤色の無機質な常夜灯に照らされた窓ガラスを垂れながれる幾筋ものしたたり、それらを適当に目で追いながら布団の中で無防備に眠る里実の細い髪をなでた。

ふと手のうちに里実の髪の感触をおぼえた。反射的にひらくも何も握っていなかった。乾いた掌に刻まれた皺をそっとなでる風にさらわれるものは何もなかった。数時間前、ていねいにメイキングされたベッドの上で里実と抱きしめ合い、くちびるをかさねた。完全に消灯し、布団へともぐってから手をつないだ。酒に酔うと気分が高揚して早々にまどろんでしまうのは昔からだったが、そうした状況でも入眠できなくなったのはつい最近ことだった。寝酒は眠りがあさくなり、疲れが抜けないため、もとより好んで使う手段ではなかったものの、時おり前ぶれもなくおとずれる不眠に悩まされれば体質の変化を恨めしくおもった。まどろんでいるのに眠れない、酔いが引けば何かに呪われたような不快に取りつかれるのは毎回のことだった。暗闇の中でひびく置時計の聞きなれない秒針の作動音が耐えがたかった。カーテンを閉じた室内では目を閉じていても開けていても何も変わらなかった。記憶とも妄想ともつかぬ鮮明な映像が脳裏をたえずかけずり回っていた。喜怒哀楽に表情はゆがみ、叫びの衝動に何度もかられた。すべての映像はじっと横たわるひとりの人間の脳内で発生した不安に起因している、そんなことは理解していた。しかし不安は接するものすべてを飲みこみ、もはやその中心がどこにあるかさえ不明にした。一郎は不安という感情を憎んでいたが、憎悪がますほど不安はより巨大化した。時間という概念が一時的に死んでいたため、時刻がさっぱりわからなかった。充電し忘れた携帯電話はリュックサックの中で息絶えていた。じっと身を固くしながら何度も里実の手を握りなおした。ふたりの手のうちには小鳥のようなあたたかさが宿っていた。ちいさなうめきを上げながら数時間ぶりに身体をおこしたとき、それが数時間ぶりの行動だということだけがわかった。体勢をおおきく変えると、それだけで何かすくわれたような気がした。ふたつのこめかみをむすぶ直線的な痛みがはしった。すこしは寝たんやろか―眠りの実感はほとんどなく、欠伸をかみ殺した。瞳がうるめば闇はぼやけた。部屋の中はあまりにも暗いため、里実の姿さえ見えなかった。起こさぬようにそっと手をはなし、きしむベッドの上をひそかに抜けだした。

出張で慣れているとは言え四時間以上の移動づかれもあったか、里実は日付が変わってすぐに寝付いていた。寝息がすやすやとしずかなところも好きなところのひとつだと告げた過去の、どこかむずがゆくなるやりとりをほほえましくおもった。

地産地消は料理だけじゃなくて地ビールと地ワインにも力を入れているんです、とやさしいまなざしのままマスターは語った。キャラメル色のサマーニット帽、発語に合わせて別の生き物のようにうごく白髪交じりの顎髭が特徴的だった。提供する料理のことごとくが美味なため、洋酒全般さほど好まないものの、すすめられるがままにマリアージュをたのしみ、つい杯をかさねてしまった。あっちで三年修業したんです、まぁほとんど観光みたいなものでしたが、とソムリエのように片手でワインをそそぎながら持ち前の低い声で告げる声にいやみな自慢ったらしさはまったくなかった。各テーブルの上から吊るされたランプの、やわらかい明かりにのみ照らされた食堂の非日常的な雰囲気もふたりに良い影響をあたえていた。こうやってのんびりした時間をつくることも最近はなかったと日常のコミュニケーション不足を申し訳なくおもいながら、オレンジ色の明かりの下でほとんど目立たない顔の赤らみを気にする里実の目元に浮かぶやわらかさに自然な微笑で応えた。

里実さんはやっぱり美人やな、派手やないけど、そうおもいながら酸味のすくない赤ワインを一丁前にあじわうのを翁くさい趣味だと自覚しながらも口角がいっこうに下がらないのをしかたないとあきらめていた。亜麻色の長い髪を丸めて頭にのせる、いわゆるお団子ヘアーにしていたので長い首とうなじのうつくしさが際立っていた。里実は一郎の長らく目にしなかったほがらかな様子を見てよろこんでいた。ただ単純にじぶんの予約した宿を気に入ってくれたのだと解釈していた。きのうまでのどこか緊迫した重苦しい雰囲気が嘘のよう、ふだんより饒舌になってしまうのを止められなかった。きっと一郎くんには退屈な話よね、つい付け足してしまう余計な枕詞も口からもれなかった。ふたりの食事が終わるまでのあいだ、交わした会話のことごとくが心地よかった。たがいの声を聞きながら親しみと恋慕にも似た気もちをつのらせた。最後に頼んだチェイサーをそろって飲み終わったところで席を立った。一郎の提案とマスターの助言により星を見に行くことが決まっていた。外に出ると、標高が高いため八月とはおもえないほど冷えていた。里実はマドラスチェックの大判ストールを肩から掛け、一郎は小豆色のカーディガンを羽織った。それぞれ空気の涼やかさをよろこび、肩を寄せ合った。エントランスを抜けた瞬間から都会ではおよそ想像もつかないほどの星々が澄みわたった空にまたたいているのがわかった。そこからさらに歩き、ペンションのつらなる一画からはなれた広場まで行くと、かがやきはますます数を成し、よりつよくひかった。浮かぶ数がおおすぎて星座をむすぶことさえできなかったが、どこまでも空を横断する天の川を明晰に視認できた。ふだんまったく目にできないものがたしかに存在しているという事実は里実の胸を打った。幽霊も神様もUFOも、まったく信じてこなかったけど、今ならどんな奇跡だって信じられる気がする、だって、こんな、こんな……上を見ながら歩く里実は暗い足元の隠れた段差でよろけた。やばい、わたしバカになってる、一郎の肩にもたれながら笑った。本格的に酔った里実を見るのは久しぶりだった。祖父の営む養護施設へと定期的に足をはこび、登山のためにさまざまな場所に出かける一郎にとってもこの場所の夜空のうつくしさは目を見張るものがあった。神様か、里実のことばに反応して勝手に口をついて出た独白だった。うつくしいもの、奇跡的なものを目にして神の存在を想起したことなど一度もなかった。そうしたものにふれて感じるのはおのれのちいささ、宇宙のかぎりない広さ、時間という存在の不可思議さだけだった。ネガティブな思考などなく、むしろすがすがしい気分で孤独を、人生のはかなさをあじわった。夜風に波立つ背の高い木々がさわがしかった。しろい息など吐けるはずもないのにおのれの呼気が宙に溶けていくのを明視し、おもわず目をうたがった。魂でも抜けたかんかな―視線を下げれば、にやつきながら夜空に感動しつづける二歳年上の里実がやたらと子供っぽく見えた。不吉なことを口にして興を削ぐのも無粋だとカーディガンを羽織りなおし、ふかい呼吸で暗闇の森を見据えた。

付き合うきっかけなどなく、気づけば同棲をはじめていた。たがいに失恋の直後だった。大学内のサークルの先輩後輩だったが、里実の在学中にさほど交流があるわけでもなかった。ふたりで杯を交わしたのは偶然行きつけのバーで再会したからで、たがいにひとりで来店したため自然と会話ははずんだ。里実の方が先に席についており、すでに当たりはずれのあるオリジナルカクテルを何杯か飲んでいた。里実は一郎の肩掛けバッグに入ったカメラを布地の不自然なふくらみから敏感に察知し、そういえば一郎くんってカメラやってるんだっけ? 彼女の写真とか撮ってたの? とあやしく瞳をうるませた。一郎はよくされるくだらない質問に、人を撮るのは趣味じゃないんです、と素っ気なく答え目元だけで笑った。里実に合わせて頼んだ飲みなれないモヒートに浮かぶミントがいやにきつく感じられた。再会した当日には恋愛観を語りはしなかったものの、その週の別日に待ち合わせた近場の居酒屋では安酒と串物ばかり胃におさめながらたがいに踏みこんだ質問をぶつけ、愚痴を言い合った。里実の相手は職場の上司だった。さわやかなエリートサラリーマンとのありきたりな不倫に、ありきたりに傷ついていた。入社二年目にしては大胆な、そう言いかけて一郎は口をつぐんだ。なんだかんだあの人は奥さんと娘が大事なのよ……繁盛する居酒屋の喧噪にまぎれ、ふとこみ上げた感情に声をふるわせる場面があった。今はもう交流のない先輩から、ひかえめで清楚な容姿やさばさばした言動とは似合わず里実が過去に派手な男遊びをしていたと聞いたのをおもい出した。悪意のある吹聴だと切って捨てていたが、おもい出した瞬間にそれが真実なのだとわかった。たっぷり汗をかいた焼酎グラスが卓上にちいさな水たまりをつくっていた。からめた指先に力をこめれば氷はからんとうごき、アルコールがじんわりとにじんだ。それから会計を済ませた数十分後の路上でふたりは口づけを交わしていた。点滅しかけた常夜灯の下、酒の勢いを借りた二本の舌はなめらかにうごいた。首元に巻いたマフラーやストールがほんのりと熱を帯びた。街中を春の嵐が吹き荒れていた。底の黒ずんだゴミ箱はばたんとたおれ、くしゃくしゃに丸まった何でも屋のチラシやしめった段ボールの破片がアスファルトの上をころがった。花粉のせいでかるい鼻づまりを起こしていた一郎はすでに夢を見ているような感覚だった。口づけの際には目をはっきりと開けていた。

里実のマンションにころがりこんで、そのまま二泊した。きみはずるいね、行為が終わり裸のまま背を向けた里実がそっとつぶやいた。痩せた身体に浮き上がった背骨がどこか痛々しかった。返事をせずにうしろから抱きしめた。使い慣れない低反発枕のいやにくたびれた具合が頭になじんだ。女性らしい二の腕や乳房の感触がやわらかく、向けられたことばの苦さなどすぐに忘れて髪のにおいを嗅いだ。使用したばかりのトリートメントの芳香の奥から赤子のようなにおいが、母乳をおもわせる甘さが香った。さまざまな箇所に口づけをしていると、ふいに里実は布団から抜けだした。小窓から射しこむ常夜灯の冷たい明かりに照らされた左の足首に黒揚羽が張りついていた。容姿にそぐわないデザインの刺青だった。刺青そのものを批判する気もちはなかったが、過去の恋愛などもふくめ、さまざまな意味で趣味が悪いと感じた。黒揚羽は細くしまった足首から今にも飛び立ちそうだったが、やがて里実と共に寝室を抜け、廊下の闇へと消えた。せまいキッチンの奥で冷蔵庫を開けたのだと開閉音と内灯のかすかなオレンジで悟った。しとしとと窓を打つぬるい雨がふっていた。

 大気を染める山吹色やうす紅色はじょじょに濃くなっていた。夜闇はもうほとんどなく空全体は使いこんだ白磁のような色をしていた。山脈の輪郭はいくぶんかするどさをうしなっていたものの木の一本一本がしだいに浮き彫りとなった。さまざまな場所から鳥や蝉の鳴き声が、あきらかに数分前より活発に聞こえていた。それでもさわがしいというにはほどとおく、朝の澄んだ空気が余韻を残しつつもすべてをやさしく吸収すると静寂はかえって強調された。道はふたたび山肌に沿ったおおきなカーブへと差しかかっていた。来光のきざしを確実に感じていたものの光源の方角は歩いてきた道に隠れていた。鼻緒と擦れる皮膚はやはり痛んだもののそれにも慣れはじめていた。悪化しない怪我は身体のあらゆる律動と同期して思考から何かしらの正常性をうばうようだった。しかし意識そのものははっきりとしつつあった。気づけば額に汗をかいていた。気温が上がっているのか、それとも歩行や怪我により身体が熱を持ったのかはわからなかった。とおくから心脈よりも速いテンポの重低音がひびいてきた。知覚するといっそう明晰に聞こえ、しばらくすればダンサブルなメロディと自動車のかん高い走行音も耳に入ってきた。かなりのスピードを出していることは車体を目視せずとも理解がおよんだ。この自動車がおれを轢いてくれればいい、ふとそうおもった。冗談とも本気ともつかぬ発想だったが、自動車が近づくにつれ確信的にじぶんを轢くべきだ、いや、轢くにちがいないと考えるようになった。こうした直感はするどい方だと自負していた。これは必然、ふいに訪れた運命なのだとおもった。そこに喜怒哀楽の介入する余地などなかった。ただ受け入れるしかなかった。足を止めることなく、かといって速めることもなく一歩一歩と確実に踏みだした。思考とは裏腹に顔や腓の筋肉が緊張していくのがわかった。自動車との距離はちぢまっていた。複数の乗車員による若者らしい喧噪も聞こえていた。路上からは先ほどよりもひらけた景色が見わたせた。いくつもの麓の成す壮麗な景観や船に見立てた盆地のすき間から幹線道路や国道、その奥の二級河川と市街地がのぞいた。朝靄の中でうすくひかる街並みは人生の希望そのもののようだった。来光がいよいよ近いと肌で感じていた。できれば日の当たる前に来てほしかった。

「それより、雨がふればええのに」

 深呼吸と共に森の香りを嗅ぎながらそうひとりごちた。声はやはりかすれていた。高校時代に買ったリバー・フェニックスのブロマイドを、ついで里実のほほえんだ顔をおもい出した。もっとも好きな顔だった。右目元の黒子と左頬にだけできるえくぼが愛おしかった。申し訳ない気もちになったが、何をどうあやまるべきなのかわからなかった。自動車が最後の急カーブを超えて向かってきた。ヘッドライトのうるさいほどの光度にげんなりとしながら目を細めた。あそこの窓からリバー・フェニックスが顔をだせば完ぺきやんな、そうおもったものの声にならなかった。温度のない風が一郎の頬をつよく打った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 二

 

 早朝のひかりが白みはじめた時にはまだ山々の輪郭の、うっすらと浮いたのをながめることしかできずさわやかともぬるいとも形容できる微風をうつろに乾いた眼球や唇、痩せこけた頬、寝間着にした長袖のTシャツと数年前に百バーツで購入した襤褸のタイパンツにたよりなくつつまれた手足で受けて歩くさまは露骨に妖怪をおもわせる異様さで、闇の住人が何かの手ちがいで夜を抜け出してきたさまにも見えいずれ陽が昇りきれば音もなくひかりに溶けるのではないかとくだらぬ邪推をゆるすほどだとその証左に夏の休暇を謳歌する地元の若者たち(といっても闇の住人と年齢のさほど変わらぬ)がそのうちのひとりの(無論両親の全額負担による)購入したばかりだという外国製のセダンを幾度も席を替え替えしながら乗りまわし、地元の古めかしいものの在住する者らには希少な憩いの場として機能するダーツバーで、壁にまでにおいの染みついたアルコールやほんのり脱法めいた娯楽、あるいは香煙を十二分に堪能したあと点検を怠ったネオンの不規則な点滅と巨大な蠅がどこかに引っ掛かっているかのような不快な作動音を浴びながら砂利の敷かれた駐車場をもぞもぞと出発した際にはふかく更けていた夜も今やほとんど明けたことでいやます高揚さえ山あいのいくぶんか急なカーブを超えた先にふとあらわれたその予期せぬ登場、慣習的に点灯していた効果のとぼしくなりつつあるヘッドライトに照らされた視野への闖入をゆるした際に、もうすくなくとも二十分以上我がもの顏してとおり過ぎてきたこの先数キロメートルは何もない一本道を途方もなく疲労困憊したふうな足どりでいく姿をみとめた瞬間に馬鹿騒ぎを中断し、しばしことばをうしなったことをあげるのにいささか無理があるすればそれは予期せぬ登場や闖入の際にはだれもが似たような反応を取るもので乗車していた四人はたしかに困惑したものの、なんだよ今の……とひとりがつぶやけば別のひとりが、なんかやばそうだったな……と返し、それぞれが口や耳になれたことばをぶつけることで平穏を取りもどしていき中断した騒ぎをしだいに回復する。

陽光の射さぬ山肌をヘッドライトでつぶさに照らすようにして行けども二本の光線がひかりを宿しはじめた大気にうまく刺さらずひっそりとわだかまるのは水面に浮いた油膜が消えることなく残るのと似ていたが、そんな事実などどうでもいいのだと言わんばかりに外国製のセダンは改造したてのエンジンの放つ無粋なうねりをとどろかせつつ前進したしかにすれちがった何者かをたしかに存在した恐怖の刹那をはるか後方に置いていこうと躍起になる。

四人の目の前には別の山あいにまとまった数棟のペンションがあり遠目には、というより見る角度によっては森の中に点在するかのようだがおのおの創意工夫をこらしたであろう建物(あえて中古の煉瓦を使用して味のある外観にととのえたものや屋根をおおきく設けることで上から見た際目立つようしてあるもの)や看板あるいは敷地内の意匠は寄れば寄るほど明晰で、一帯を貫通する竜の背骨のような山々の区分を無効化する列なりの中でひときわ背の高い峰が、その高さを誇示するかのごとくあるいはその高さがゆえに選ばれたのだと言わんばかりに輪郭を濃くし、後光と呼ぶにはまだよわいものをその頂からほんのりと放っている。

四人の中でもっとも鼻のふとったするどい目つきの若者は後部座席にどっしりとふかく体重をあずけながらペンションのある一画とわずかな山吹色を宿すうすい曇天によって輪郭を濃くしていく峰の刻一刻の変化を交互に、さほど意識するでもなくながめており徹夜は苦手で常ならば自然と眠気がおそってくるはずなのに眼は一向に冴えたままで疲れだけが肩から腰にかけて重くぶら下がっているせいで不機嫌になりつつあったもののそれを悟られるのも面倒だとおもい下手な欠伸の真似をして目元を人差し指で撫でながら他の三人のすっかり復元した馬鹿騒ぎがえんえんとつづくのに嫌悪はつのり、きつく握ったこぶしの中で立てた爪はおのが皮膚を突き破らんばかりに猛っている。

頑丈で岩石を想起させるその拳固は車内唯一の労働者であることの証であり、これからまだ一ヵ月ほどある休暇を舐め尽くすように満喫するであろう学生身分の三人への羨望に交じった微々たる軽蔑の象徴でもある。

昨夜も呼び出されたのは事務所に併設された(というより元々工場内に事務スペースをちいさく設けていたが事業拡大のため新たに土地を買い取り約十五年前に事務仕事用の別棟を建設したものの正門を抜けた先の駐車場からそちらの方が近いため「以前からあった本館」として認識する者が大半で、一切の事情を知る者も呆れ顔とも得意顔ともつかぬ表情での説明を省くようになって久しい)硝子工場で仕上げの研磨作業を終えた二十一時前で本来ならば恋人の待つアパートへ直行するところだが彼のシフト上今日が休みであることをすでに知っていた三人からつよく誘われればことわるすべもないのがこの地域に在住する若者らに通底する特性なのかもしれないと周囲を顧みてふと感じることもあり、それぞれ別の大学に進学したはずの三人がことあるごとに彼をふくむ地元の仲間を呼びあつめては飲み明かすという今現在の状況からもいくぶんか結論めいて推察できるのは三人が大学生活を本人らの主張するほど順風満帆におくれていないという事実で、三者三様大学内でできたという恋人や友人の何気ないエピソードを披露するのだがどこか虚構らしく空疎な印象をあたえるものであからさまな設定の欠陥は折ふし露呈しそうになったがそのたびに他者の善意とも悪意ともつかぬぎこちない一言や動作(長居しがちなサイゼリヤでのあまりにわざとらしいフォークの落とし方!)で話題はたやすく次へとうつったし、その移行は個人の意思というより場に居合わせた全員の総意といった具合で、十数年も付き合いがあればことばなんかあんまいらねぇわな、と一週間前に語った慎吾は運転席で若干流行おくれのEDMに合わせて身体を前後に、いや過剰に加工された音声の属す言語に合わせるならば後前にゆらしながら英単語をそれっぽく口ずさんでおり―慎吾は昔から英語の発音がきれいで、それは母方にイギリスの血が流れているからだとことあるごとに吹聴していた。現在は地元から最も近い私立大学で英米文化を学んでいるが勉学にほとんど集中していないため英語能力は高校時代の方が高かった、その証拠にかつて(かろうじて)聞き取れたはずのネイティヴ同士の会話を今はまったくと言っていいほど理解できなくなっている(とはいえ英単語はちらほらと拾える)ともう何度耳にしたかわからない話を酔うたびに意気揚々と口にする―その振動に合わせておどる左耳のピアスの、音楽と半拍にもとどかないほどわずかにずれて絶え間ないのが山頂からいまだ姿を見せぬもののつよまりつつある陽光のしのばす山吹色と陰影をなすのを後部座席からじっと見つめながら一向におとずれない眠気をあやしむ。

右斜め前の助手席では外国製のセダンの持ち主(無論名義は父親)である和哉が煙草をふかしながらあわい水色のレンズが印象的なサングラス越しの視線をまっすぐ前へ伸ばしている。

髪色と髪型を頻繁に変えるようになったのは大学に進学してからで見るたびに変化する髪の具合は知己らを毎回おどろかせたが―不動産業を営む父親は豪快に笑って許してくれたものの母親はいつも苦い顔をするのだと軽蔑した口調で話すのが常で昔から母親との折り合いが悪いのは地元で付き合いのある人間は残らず周知する事実―本人はいたって落ち着いており、こんなん中高の反動だから、どうせあと二年せんうちにおれら短髪に黒髪だわ、と右の口角をくいっと上げるニヒルな笑顔を見せながらも切れ長な眦と先天的な三白眼のせいでよりいっそうきわだつするどい眼光はやはりとげとげしい印象を相手にあたえ、その目つきはなんなのよ、ほんとうに嫌な子ね、と幼い頃に母親から何度も言われたことをネタにして話すほど割り切っていると本人は口にするものの二日前に編んだばかりだという赤のエクステンションを織りこんだドレッドヘアーは自己防衛のための武装にしか見えないと左斜めうしろからバックミラーに映る浅黒くてほどよい広さの額と生え際へと目線をうつしながらおもう。

空気のよどみと全身の中途半端な硬直が長くつづいたせいで苛立ちというより不快な気分になっておりそれには大食いで肥満体形ではあるものの体脂肪率の意外な低さと運動能力の並外れた高さで知られる正勝が右隣の後部座席で二十四時間営業のマクドナルド(いやに高くおおきく掲げられた看板―角がないのに明確に大文字を意識させる駱駝の瘤を想起させる芥子色の曲線ひかるM字―と埋まることを知らない広大な駐車スペースが夏空の形式ばった広さや四方を囲む山々のひそかな圧迫感を助長している)のドライブスルーで買ったテリヤキマックバーガー、チキンマックナゲット15ピース、マックフライポテトL、プラスチックカップ入りのサイドサラダ(これ食べてるから無問題!)、マックシェイクバニラMを海老のごとく背中を丸めたままのいかにも自閉的な姿勢―故意に伸ばした襟足が着古したTシャツのよれたネックと共にふとった首の肌理こまかなうなじを八割ほど隠し咀嚼に合わせてうごくさまはどことなく水飲みに没頭するたくましい毛並みの野良猫を想起させる―でゆっくりとかつ気ままなペースで飲み食いしているのが気に入らないことも影響しており、豚みてぇだな、と何度も口にしたことばをこれが最後の一回だと言わんばかりの真の侮蔑をこめてつぶやいても案の定本人の耳までとどかず座席に面した前後左右のドアにひとつずつ設けられたホルダーに挿しておいた飲みかけのペットボトルに入った生ぬるい烏龍茶を朝方のねばついた口内に流し入れかるくゆすぐようにして最後の一滴まで飲み干し空になった容器を適当なかたちにひねりつぶす。

じゃりじゃり、と圧縮されるプラスチックボトル特有のきしみが空疎にひびいたが車内は相変わらずの喧噪で、外国製のセダンが山肌をなぞるのは麓と平行で、朝のうっすらとしたひかりににじんだのはおのれのやりきれない退屈なのだと悟りながらも視線をそらすようにしてふかくため息をつき、窓の外に目をこらす。

ペンションのあった一画は目の前から右横方に移動しており一時接近したもののそこへと降りる道へと折れずに直進(と言っても実際は山肌に沿って走行しており慎吾の運転の粗さも加担し相当曲がりくねっているのだが)したためふたたび距離はひらきつつある。

しだいに後方へとずれていくのを横目でじっと見つめていたがリアピラーに隠れはじめると視界に収めることをあきらめ、まなざしを車内へともどすもジャンクフードと男四人のかもす獣くささに煙草の煙、香水のあざといにおいが絡みつけばもはや悪臭であるとにわかに我慢できなくなり、だれにことわりもせず左手の人差し指(傷だらけの指腹にこしらえた波線状の火傷痕がまだすこしひりひりする。アルコールで血流がよくなればじんわりと熱を帯び血は出ないものの熟れた苺の色がしぶとく残る)で手元を見ることなくパワーウィンドウスイッチを操作する。

唐突に開いた窓から最もすばやく射しこんだのは風ではなく自動車そのものが風を切るごうごうとかん高い音と早朝のまろやかに澄んだ冷気で、窓際に寄せた若者の前髪が明確にあおられるまでには時間的なずれー無論窓そのものがゆっくりとしか開かないことやたった二寸ほどのすき間ができたところで操作を終えてしまったことも関係しているーがあり、その頃になっても右隣の席の正勝は背を丸めたまま十二個目のチキンマックナゲットを頬張っていたし運転席の慎吾はまばらな集中力で飽きることなく首と声帯をふるわせている。

ただひとり助手席の和哉だけが車内の変化に気づきヘッドレストにあずけていた首に力をこめて左後方へとひねりながら声をかけたもののうす暗い車内に不必要なあわい水色のレンズが印象的なサングラス越しには対象者の姿は曖昧にしか見えない。

和哉自身明晰にとらえる必要を感じておらず左隣の慎吾のおおきく隆起した喉仏をぼやついた視界の端にうつしながら別の生き物のようだとおもう。

「太志、おまえ気分でも悪いんか」

「あ? いや、空気がこもってるなとおもって」

 太志、と下の名前を呼ぶのは知己の中でも限られた者だけだと認識する若者が和哉からの投げ捨てるような口調を好ましく感じながらもぶっきらぼうに応答したのはダーツバーでのはした金とはいえ金銭(若者からすればみずから稼いだという感覚のつよい)のかかった試合でのあからさまないかさまに腹を立てた名残が自然と採らせた無防備な強気であることをたがいに理解しつつも声のトーンに差異があるのは、わずかに開いた窓から射しこむごうごうとかん高い風の音との距離にひらきがあるせいだ。

今年購入したばかりのあざやかな藍色のデニム地のハーフパンツの右ポケットに入れたスマートフォンがよわく振動したのに気づいたのは両方と密着した若者だけでその十中八九まちがない相手を予想できているのもまた彼だけで、というのも秘密主義者であるがゆえに恋人ができたことを周囲にひた隠しており(中にはその事実に気づいている者もいたがそうした話題を若者が露骨に敬遠するため風貌のいかつさや学生時代の気性の荒さも考慮してふかく追及する者はなかった)半同棲を開始してすでに一ヵ月弱の時間が経過している。

やたら過去の恋愛を突いてきたり、いつ/どこで/だれと/何を/しているか(まるで英文の授業のようだと惚気と自嘲による笑いを何度もこらえた)をこまかく聞いてきたりするのに対し、何故そんなことを気にするのかと問えば別に、ちょっと気になって、と含みを持たすような顔文字を文面に添えたり、あるいはかるく不貞腐れるような態度で返したりと嫉妬ぶかさの兆候は交際を開始する前から感じていたが当時はそれも可愛いものだとたかをくくっておりそもそも決まって問答の際に使用する「浮気する甲斐性も気力もない」という常套句は偽りなき心情であるし疑わしいこともないと断言できる日常―たしかに知己らといかがわしいクラブまで遠出したこともあるが若者は終始乗り気ではなかった。何よりもまず騒音が不快だし見知りもしない他人と肌を寄せ合っておどる意味もよくわからないし目を引くほどきれいな異性には大抵面倒くさそうで筋肉質な同性が同伴して目をひからせているしアルコールのにおいはじぶんも飲んでしまえばさほど気にならなくなるものの独特の汗くささ、この車内にこもる「男くささ」とはまたことなる「ごった煮のような蒸気」に鼻孔は一向に慣れないし否応なく視界に飛びこむ男女問わずの開いた胸元で身体となじむことなく跳ねる、安いか高いかの判別も不能な金属製アクセサリーのチェーン同士がこすれそうな映像もかるく鳥肌を立たせる、というのも幼少の頃から金属同士のこすれる音や手につたわる感触が非常に苦手で、いつからかそれを想起させる映像でさえどことない緊張を強いるようになった―だが、ことあるごとにたがいのスマートフォンのGPS機能を共有しようとすすめてくるのはうとましいというより困惑を呼ぶもので、相互監視し合うような関係は健全ではないと語気やわらかく退けようとも時間をおいて何度も持ちかけてくる。

幾度となくおなじやりとりを繰りかえすうちに「すっかり馴れ合いと化した」のだと若者は自身の認識を共有するまで折れるつもりもなかったが慣習化が分の悪さにつながるのを察知せぬわけもない恋人はもう幾度となく繰りかえしてきたおなじやりとり(しかし確実にことなったはずの一度目のかたちをおもい出すことは不可能)の終わり際、ふだんどおりの穏便な収束を拒絶して叫んだ。

その眼にはいつから浮かんでいたかもわからない涙にあふれ、その一滴がぷっくらとふくらんだ輪郭(本人は丸顔が嫌だと頻繁に口にしたが顎の線の細い若者はそのたびに否定して賛辞をおくった。「頭蓋骨って模型で見るとどれも面長なのに、じっさいここある顔が丸いって神秘的な感じがする」と共感を得がたい想いを率直につたえる際の真面目な口調と真摯な目つき、それらと相反するようでいて違和感のない指先でのやさしい愛撫)に沿って流れ落ち顎の先からしたたるかにおもえたもののそのまま首筋へとうつりやがて見えなくなった。

そうやって茶化さないでよ、わたし、本気で不安だし、本気で悩んでるのに、そう言われると切なさがこみ上げ、うつむいた恋人(眉毛にかかる程度の長さの前髪が目元を、若干くせがかってはいるもののそれを活かしたスタイリングの魅力的な横髪が輪郭を隠しているため固く結ばれた口元しか見えない)を無性に抱き寄せたくなったが伸ばした手は無下にはらわれた。

恋人の不安というのはおそらく交際を開始するまでの経緯に由来していると直感していた、というのも元々恋人には別の交際相手がいたもののそれを若者が寝取った(実際肉体を交わしたのは正式に交際を開始してからだが元々の交際相手は頑としてその事実を認めず若者を敵対視した。それ以前から恋人の心中が完全に若者へと傾いていることには気づいていた)かたちとなっており恋人はしきりに、ほんとうはわたしこういうふうに付き合うの嫌、太くんは特別なんだからね、と念を押すように口にしていたもののそうしたことばはかさねればかさねるほど空疎にひびくのが常で、かよった高校は別であるものの狭い地元の同世代となればそれとなく相手の経歴などは知れるわけで、それなりの男遊びをしてきたことは聞き耳を立てなくとも勝手に飛びこんでくる情報とも言えたし、こうした証言よりも明白なのは一夜目にして感じた口づけや性技の熟練で、相手の欲望に接した懸命な献身が当人の最も嫌がる事実を裏打ちしてしまうという皮肉な事態に気づきつつも指摘するでも後ろめたさを告白するでもなく快楽に身をゆだねつつ自身の性器を咥えた恋人の頭をそっと撫でながらも、嘘はばれないようについてくれればいい、とドラマめいた科白が浮かんだ内心にどこか俯瞰で白んでいたいつかの夜のこころ持ちで二ヵ月前にふたりで購入したパッチワークをあしらったアイボリーのラグ(炬燵兼用のテーブルからほど近い位置に赤ワインの染みがうっすらと残っている)の上でうつむいたまま今や泣いているのかも定かではない口元しか見えないしどけない割座のままクッションを抱えて微動だにしない恋人の姿を凝視しながら胡坐をかき、かるく組んだ両手の親指の腹をこすり合わせていた。

クーラーや冷蔵庫の作動音を貫通するかのような秒針のチックタックと絶え間ない営みに耳をやりながらそれらがもはや何を数えているのかもわからなくなるほどの沈黙に呑まれれば当然時間の感覚はあやしくなり、閉じきったカーテンの室内を電球の白いひかりが照らすのさえ退屈に感じてしまうのはよくないとわかっていながらもしだいに苛立ちはつのり、おおきくため息をついた。

GPSのこと、もうちょっと真剣に考えるからさ、もうちょい待ってて、おれ頭冷やしてくるわ、唐突な発語に声帯はこらえきれず声音のほとんどはかすれていたが若者は咳ばらいをはさむことなく話し終えると目線をはずしながら立ち上がり、その際テーブル上にあった煙草のボックス(まだ十五本も残ったセブンスター)とライター(喪失したジッポの代理と言いながらもう半年以上使用しているモスコミュールのようなグラデーションの百円ライター)を左手に握りしめて玄関へと向かった。

恋人はうつむいたままちいさくうなずいたものの、その様子は目撃されなかったし立ち上がった若者が玄関マットの上で振りかえることなく、泣かせてごめん、とつぶやいた時もふたりの視線はてんでばらばらのベクトルのまま交わらなかった。

いやに重たい金属製のドアが機嫌の良し悪しにかかわらず勢いよく閉じてしまうせいで室内にはかえって冷たい静寂が拡がっているのではないかと想像しながら自室のある二階から外付けの折りかえし階段を一階まで威圧的な足どりで降りていく際に履き古した安物のサンダルのすっかりうすくなった底と陰気な照明に照らされた白鼠色のコンクリート面の成すペちんぺちんと情けないひびきに疲れがどっと助長されるのを感じながら、その気だるさにおぼれるようといっそう脱力し、より音がおおきくなるようにと足の下ろし方を工夫するというどこか矛盾した行為にひたりつつ全身をうごかすうちに歩行そのものに妙な推進力がつき本来ならばエントランスを抜けたすぐのところで煙草を吸うのだが背の高い常夜灯が中央にぽつんと位置する駐車場へと何を考えるでもなく向かっており、アパートからの明かりがよわまれば暗闇に慣れない目は明晰だった足元の映像をうまくとらえられなくなった。

ペちんぺちんと小気味よかった足音もアスファルトとなれば乾いてしまいそっけなく、ネジ巻き式のブリキ人形のようにみるみる速度をうしなうと立ち止まるより他なく、日付の変わる手前の田舎となれば周囲の大半は寝静まっており道路をはさんだ先の田畑から虫や蛙の鳴き声が澄みわたるのを、それらが目的どおり彼ら自身の位置を知らせるものとして機能をするのを耳に収め、おおきく伸びをしながら上を向けばこの地域ではありきたりに雄大な星空が流れの早い巻雲とたわむれていた。

弓張月が低い位置で駐車場の中央に位置する常夜灯とほとんど被るようにして質素なひかりを放つさまは見る双眼に、あるいは下水化がすすみ生活水は入り混じらなくなったもののきれいとまでは言いがたい田畑に沿う小川のささやかなせせらぎ―傾斜のない土地のため水流の向きは近くで目を凝らさないとわからない―はとらえる双耳に今この刹那、自身を取り巻くすべてから解き放たれているという孤独な自由を感受させた。

部屋にもどって恋人と話し合う必要性も明日ふだんどおりに早起きして仕事に向かう必要性も仕事仲間のくだらない与太話に付き合う必要性もここでさほど吸いたくもない煙草の煙で肺を満たす必要性もどこにもないのだとすがすがしく理解されたがそれらはあくまでも理解されただけの話であり、実際の行動がことごとく逆を行くというのは五分後の若者にとってあまりに明白な事実であったものの夜風のさわやかさにわずかながらでも染まれたという確信が、実行しなかった逃走と自由の可能性をどこか別の次元で保存しているのだと子どもじみたことをおもわせた。

こうした空想は小学生の時分からプレイしてきたRPGの影響において発生したもので多感な思春期を終えてもなお折ふし胸中に去来するのを予知することも防ぐこともできず、歳をかさねるごとにくせづく眉唾ものの【パラレル発生の瞬間】はだれに説明されることもなく折りたたまれ、別の次元で保存される……もはや笑い飛ばすしかないだろうと半ば意識的にあきらめをふくんだみじかい笑い声を夜空に放った三十時間前の出来事を回想しながら先ほどすれちがった襤褸まといの妖怪めいた男の姿をおもい返せばあれは【パラレルワールド】に生きるおのれが何かの手ちがいであちらからこちらへと移動したのではないかとだしぬけな発想に捕捉され、一度捕捉されればー印象はきわめて不明瞭で背格好さえまともにおもい出せないが生気のないうつろな目つきとその目つきがゆえに年齢不詳となった顔ばせ(ふかく刻まれたほうれい線とそれ以外の皺の目立たぬしろい肌)だけははっきりとおぼえており、それらはまるで若者とは似ていないもののセルフイメージに何度も裏切られてきた人間特有の、凄惨なものをひび割れた鏡としてしまう自虐的性質―事実をたしかめねばと欲望とも義務感ともつかぬものが湧き上がり、引き返してくれと叫ぶのを必死にこらえるのは小学生が渋滞した高速道路で小便を我慢するさまにも酷似していたが隣席の正勝はそれに気づくことなく一定の速度での咀嚼に没頭していたし、運転席の慎吾は相変わらず代わり映えしないBPMのEDMに首を振りながら前を見て運転していたし、助手席の和哉は多少の異変を悟っていたものの若者がふいに黙りこくり不機嫌そうな面持ちとなることはこれまでに何度もあったことで高校時代には下手に絡んだ仲間を殴りつけた場面も目にしてきたため声をかけることはない。

頬にするどい風を浴びながら臀部にねばり気のない汗をかき親指の腹を激しく擦り合わせるうちにハーフパンツの右ポケットに入れたスマートフォンがよわく振動し、それをきっかけに溜まっている未読の文面にそろそろ既読をつけないとまずいかとおもむろに取りだせば光彩を放つ待ち受け画面(初期設定のまま)に表示されたのは想像どおりの相手からのメッセージ十通、以前ショッピングをしたアパレルショップからの自動メールを一通受信したという通知であり、ろくに目をとおしたことのない後者は放置して前者を最初から読みはじめればしっかりと捕捉されていたはずのパラレルワールドの妄想、あれはおれではなかったか? という確固たる想いは泡のごとく消えていき代わりに恋人への愛情が身勝手に湧き出るのを実感しつつもそれが表情や仕草にもれぬようにと気づかっている。

「おそーい!何時帰ってくるの?」

「今テレビに太くんの好きなバンド出てるよー!(添付された写真はソファーに座りながらTV画面を撮影したため液晶に部屋の照明がしろく反射している。フロントマンであるボーカルの目深にかぶったハンチング帽はその面持ちのほとんどを隠し、たくわえた顎髭と歪な口元しか映さない。若者の敬愛するギタリストの上半身が見切れている。手前にはテーブルの端が写りこみTV台を兼ねたサイドボードの上には恋人のアクセサリーをいれた小箱と化粧水と乳液が置いてある)」

「録画できなかった・・・(泣き顔)」

「おーい無視するなー(怒り顔)」

「もういい!ふて寝してやる(怒り顔)(怒り顔)」

スタンプを織り交ぜた日常的な文面は若者の頬をかるくゆるませたが「あのね」と一言だけで送信されてから時間をおいてつづられた

「あたし、ほんとうに太くんこと好きだよ。いつもわがままばっかでごめんね(汗)太くんがあたしのために努力してくれてるのはめっちゃ感じてるよ(笑顔)あたり前だけど(輝き)ぜんぶあたしが悪いっていうのはわかってるんだけど、時々めっちゃさみしくなっちゃう。。。こうやって既読がつかないのに何回もメール送っちゃうのだって、ウザいってわかってるよ?でも、そうしないとやっぱ不安で(汗)もちろん太くんことは信じてるよ!あーなんかぜんぜんダメだ(汗)まとまんない笑 もう寝るね。ぜんぜん寝れなかった笑 仕事終わったらまた連絡しまーす(ハート)」

という文章は逆に口元を固く引きしめる。

最後の一通を何度も読み返しつついやまし高まった愛情にこびりつく情けなさから肩を落とし、ため息をつきながらも隣に座る正勝に万が一でも自身のスマートフォンを覗きこまれないかと液晶画面の角度に気をくばるほとんど無意識からの所作(三人に恋人の存在とその詳細を知られれば非難されるのは目に見えている。お前はいい奴だけど女を見る目は腐っとる、というのが慎吾の常套句)を自覚すればなおのこと自己嫌悪に陥りそうなったがそれを防いだのはやはり恋人の存在で、GPSなんていくらでも共有してやる、とその場限りの高揚を胸の奥にちいさく灯していたものの、こうした想いを文面でつたえるには手間が掛かりすぎるとあきらめ、どうせ半日すれば再会するのだと言い聞かせても急に恋しくなった恋人の肌に焦れる熱さは先ほどまでのネガティブで神経質なイメージを伴わない。

こうした複雑で流動的な感情の主な出現場所である顔ばせにバックミラー越しの視線をぶつけて観察するのは無論助手席の和哉で、おまえ気分でも悪いんか、ともう一度声を掛けるのも無粋だと感じながら朝方になっていやにきつく頭皮に食いこむ赤のエクステンションを織りこんだドレッドヘアーがうっとうしく編み目を指先でそっと撫でようと左肩を上げるとそのままおおきく伸びをし、それに付随した欠伸で涙目になる。

水色の視界がにじめば海の中のようだと装着したサングラスを購入してから何度も抱いた感想を、去年もおなじことをおもったはずだと振りかえるものの具体的な出来事は浮かばず去年抱いた異性との一夜を回想しようとしたが詳細は曖昧で、よく考えればあのワンナイトラブは一昨年だったかと乾いた感覚だけが脳裏にうすく焼き付いたのをはらうように目をきつく瞑ると流星のごとく一滴の涙が頬をつたう。

星が落ちれば君を想う、ありふれたラブソングの歌詞を想起したのは先ほど添付された写真のせいだとおもいながら口の中でことばを咀嚼している若者は助手席の左頬につたう一筋を、常ならば見逃さないであろうよわいかがやきをたやすく視界から追いやっていたし、隣の席の正勝が背中を丸めたまま一定の速度でつづけた食事をようやく終えマックシェイクに挿さっているストローから唇をはなしウエットティッシュで口元と指先を拭いていることも、七色の光線に満ちた大気から決定的な刹那がとうに過ぎ去っていることもまったく気づかない。

「あ、もう日ぃ出てんじゃん」

正勝のことばを、声音を、あるいは事実そのものを打ち消すかのように砲撃にも似た低い発破音が車内にひびきわたる。それは走行する自動車がトンネルへと侵入した際の気圧波が生みだす自然現象だったが、その接近をまったく悟らなかった太志はかるい動揺を隠せない。出口の見えない長い構内で窓ガラスに反射する雲丹色の照明はどれもおなじかたちで、おなじ流線をえがきながら消えていく。すすむというよりしずんでいくような感覚だとおもいながら手元のパワーウィンドウスイッチを操作すれば二寸ほど開いた窓はすぐに閉じ切る。発破音の名残と地つづきの走行音、しばしの無言を強いるある種の静寂が水のように四人の耳孔を舐める。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 三

 

「たぶん最初に見て、そのあと聞いたんだと思います」

かるく咳ばらいをしたあと、彼女は話しはじめた。その声がかすれていたのは決して年齢のせいだけではなく、この日初となる本格的な発声のためだった。メイクなしの部屋着姿であるにもかかわらず、リビングの大窓から射しこむ朝陽を浴びる横顔は凛として気品さえただよっていた。

「詳細はあとで述べます。まず、わたしはいつもどおり四時四分に目を覚ましました。今日も設定した目覚まし時計が鳴る一分前に目を覚ましたのです。これで四時四分に目を覚ますのは六十三回連続です。規則ただしい生活には神が宿るのだと日々実感するところです。わたしはベッドから身体を起こして、カーテンを開けました。まだ空は暗く、この日が晴れるかどうかもわかりませんでしたが、うっすらと空は白んでいました。しばしばおもうのですが、寝室から星のまたたきが見えないことはどれだけわたしの生活のさまたげとなっているでしょう。あの街灯が邪魔なのです。石川さん家の玄関先にあるあの街灯が。ご存知のとおり、わたしは石川さんにも何度もお願いしましたし、じぶんで役所に出向いていわゆる行政的な手つづきを踏もうとしたこともありました。けれど、わたしの訴えはいつも初めの一歩で、そう、たった初めの一歩でくじかれてしまうのです。おもえばわたしの人生はこうしたくじき、わたしみずからの過失というより外から強制された失敗の連続でした。たった六十五年だと周りは言うでしょう。人間は時に口を酸っぱくすることも、されることも必要なのです。けれど今のわたしにとってそんなのは些細なことです。あの場所の街灯のあるなしはたしかに重要な事項ですが、わたしの精神はそんなことで乱すべきではないのです。わたしは淑女です。それも最後の。ご存知でしょう?」

彼女は食卓の上の使い古されたマグカップに手を伸ばし、ほんの一二分前にみずからそそいだミルクティーに口をつけた。その手はわずかにふるえている。視線は虚空を見つめるばかりでとらえどころがなかった。瞳は部屋の中に満ちた朝の空気と同化するようにおだやかで、澄みきっていた。波乱万丈を経た老人が帯びるある種の透明性を彼女も宿していた。それは沖合の、そよ風さえないひたすらな凪のようだった。

「そう、怒りという感情をわたしはいつからか忘れはじめているのです。それは喜ばしいことであり、悲しいことでもあるのでしょう。何せわたしの人生の原動力はまぎれもなく怒りだったからです。その怒りがうしなわれていくこと、わたしは間違いなく死に向かっているのでしょう。周りは言います。あなたも近い将来、旦那さんのところへ行くのね。わたしはいつも笑顔を見せながら、こころで強く否定をしているのです。嫌、そんなのはまっぴらごめんだわ、って。何故わたしが死んでまであの人といっしょにいないといけないのでしょう? あの人への感情がわたしの人生の大半を占めていたことはまさに悲劇でした。これは何度口にしても足りないくらいです。たしかにあの人が手をあげたことは一度もありません。けれどご存知のとおり、精心的にはいつもなぶられ、貶められていたのです。これなら顔をたたかれた方がましだと何度おもったことでしょう。長い苦難の果て、ようやく自由を手に入れたとおもったら、ああ、わたしはもうずいぶんと年老いていたのです。浮いた血管だらけの手はあまりに貧相で、髪は艶もなく白髪が混じっていたのです。ご存知のとおり、この事実はわたしを打ちのめしました。しかし今やそこから立ち直ってひさしいのです。わたしはじぶんを一本の木に例えることにしました。わたしの命は日々風に散りゆく葉の数に比例しているのです。そうです。わたしの人生は秋の暮れにさしかかっているのです。葉は日々散っているのです。かつてそれらが青々と茂っていたころ、一枚一枚が怒りを宿す火種でもありました。生命というのは、つまるところ熱なのだ、とかつて教えていただいたことがありますね。その教えのただしさを実感するたびに胸の奥はぬくもりを帯び、両の目は涙にぬれます。わたしの熱は激しさをうしないましたが、その代わりに何かをあたためることを学んだのです。わたしは今、教えられたとおりじぶんの人生をあたためているのです。こうした朝にミルクティーは欠かせません。そういえば昨日も茶葉を買い忘れてしまいました。これでおそらく三日連続です。さすがにこれはまずいので、今のうちにメモ書きに書いておきましょう。ちょっと失礼」

彼女はミルクティーを一口だけすすると装着していたイヤホンマイクをはずし、机の上に置いたボイスレコーダーの再生と一時停止を兼ねたボタンを押した。指先はかすかにふるえている。両手で椅子を下げ、よっこいしょ、と言いながら立ち上がった。やわらかい座面のため、また小ぶりで肉のすくない尻であるため彼女の座っていた痕がくっきりと残った。背面にある巨大な食器棚の隣に設置されたちいさめの洋風たん笥から使いかけのメモ帳とインクのすくないボールペンを取りだした。腕をうごかせば骨ばった手の関節や指の細さがいやまし強調された。丈夫な背もたれを支えにしつつ、ふたたび椅子に腰かけた。まったくおなじように座ったため、若干もどりつつあった座面のへこみにそのまま尻部を当てるかたちとなった。両手で椅子を引き終わるとおおきく息を吐きだし、一口だけ紅茶をすすった。手元に目を近づけては離しをくり返し、焦点をうまく合わせてから「紅茶 茶葉 一」としるした。文字はどれも髪のごとく細く、ことごとくの線はわずかに波打っていた。メモ帳の上にボールペンを置くとすこし遠くにやり、ボイスレコーダーのボタンをもう一度押した。

「目覚めは言うまでもなくよかったです。計った血圧も正確な数値は忘れましたが、特に問題なかったはずです。今日は歯みがきと洗顔をすませたあと、朝餉に味噌汁をつくりました。朝餉に味噌汁をつくるのはずいぶんひさしぶりだという気がします。ここのところトーストと目玉焼きとコールスローという定番のあれがつづいていましたから。時おりこうやって味噌汁が飲みたくなるのはやはり日本人だからでしょうね。あの人がいなくなってからは一時、味噌を見るのも嫌だったのに。不思議なものですね。ひさびさに作った味噌汁は田舎味噌が古くなっていたせいであまり美味しくなかったですが、人参や大根なんかの根菜とお揚げを入れたおかげでそれなりにうまくまとまりました。今年の夏大根はやはり皮が硬いように感じます。あの人は麩と若布と白葱以外必要ないと言ってましたけど、わたしはああいう具沢山の方が好きです。おそらく夏バテのせいなのでしょうが、だめですね、今朝も例のごとく一人前以上残ってしまったので、あとでタッパーにうつして明日の朝にいただく予定です。野菜はちょっとおおきめにカットしました。その方が歯や顎にもいいとテレビでも言っていましたし、その方が好きなのです。なんでもじぶんの好みに合わせてつくることができる、もうすっかり習慣となった料理のよろこびを、わたしはこうやって今もあじわうことができます。ああ、そういえば、言っておくべきことがあったのです。ちょうど昨夜の残りの煮っころがしをあたためながら味噌汁をつくっていた最中、分葱を刻んでいた時のことです。わたしはキッチンの窓越しに夜がしだいに明けていくのを感じていました。大気の変化にともなって、さまざまなものの色やかたちがあらわになっていました。もっとも、ずっと目を向けていたわけではないので、それとなく視線を上げるたびに変化があることをたしかめるだけでしたが。キッチンの作業灯もほとんど必要性をうしなっていました。が、消すと消すで暗すぎるとわかっていたのでそのままにしていました。窓を開けていたので、外からそよ風と蝉の鳴き声が入りこんでいました。野菜を茹でる鍋からの蒸気や分葱の臭気にまぎれて雑草のにおいがほんのりと鼻についたのをおぼえています。近くの森からキビタキの愛くるしいさえずりが聞こえたのでおもわず笑みがこぼれました。夏の朝はキビタキの鳴き声を聞くことができるから好きだと、もう何度もお伝えしてますよね? キビタキはもちろん見た目も可愛らしいんですが、あの歌うような鳴き声がほんとうにすばらしいんです。」

やや興奮した彼女はここでミルクティーをもう一口すすった。手のふるえはほとんど見られない。残り半分弱となったカップの中のミルクティーはすこし冷えはじめていた。

「わたしはそれを耳にしながら朝餉の準備をしていたのです。なんとも幸せなことです。鍋の火を一度止め、味噌をホイッパーと味噌漉しで溶かしました。そのあと、切り終えた分葱をざるに入れていると、ふたたびキビタキの声が聞こえたのです。それもさっきよりずいぶんと近くで。その距離におもわず顔を上げると、窓の向こうの景色が見えました。夜がすっかり明けていると、はっきり認識しました。というのも、山から顔を出したばかりの朝陽がまぶしいくらいに照っていたのです。キッチンの窓はわたしの身長に対して低いため、ふだんならばさほど遠くまで見とおせないのですが、この時は身をかるく乗りだしていたおかげでしょうか、石川さん家の駐車場も、森の中でひときわ背の高い杉の木のてっぺんも、その奥の山道のガードレールまでもはっきりと見えました。昔、車に乗っていた時によく利用した道です。あの窓から見えるガードレールはちょうど曲がり角の部分で、新鮮なひかりを浴びてつやつやしているのがわかりました。たしかに老眼ですから、景色と焦点を合わせるのに時間はかかりましたよ。だからわたしにはあの人影が、最初からあったのか、それとも途中であらわれたのか、そのあたりがさっぱりわからないのです。ひとつ言えるのは、わたしが腰をかがめた状態で、手に分葱を持ったまま窓をのぞいていると、山道にしみのようなものが浮き上がってきたということで、時間が経つにつれ、それが人影だとわかったのです。虚言じみた話ですが、ご存知のとおり、わたしに嘘をつく必要などないでしょう? 背の高さからして男性だと推測しました。彼は曲がり角から景色を見ているようにも、そこから飛び降りようとしているようにも見えました。が、肝心の表情はまったく確認できませんでした。わたしはもうキビタキのことなんてすっかり忘れて、彼をじっと見つめていました。いやに細身の人影はうごくことなく、ただおごそかに立ち尽くしていたのです。わたしは何か神聖なものと向き合っているような気になっていくのを感じていました。ちょうど奈良でおおきな雄鹿と目を合わせた時のような……神気を宿した者には独特の雰囲気があるのです。ただひとつ言わせてもらうならば、あの鹿を陽だとすれば、彼は陰だということです。それじゃあまるで死神のよう、そうおもうが早いか、とおくから大砲をおもわせる、どーん、という音が聞こえたのです。いえ、正確には大砲とはほどとおい音でした。大砲の音はもっと低く、すんでいるものです。あれは非常ににごっていました。どちらかといえば爆発音に近いような……わたしの五感のうち、耳がもっともまともだということは何度も説明してきたはずです。おそらく自動車同士の衝突か自損事故だろうと五秒もしないうちに予想していました。事実、それは当たったのです。このあたりのトンネルのほとんどは抜けた先からすぐカーブにさしかかるため、事故がわりとおおいのです。しかもこの時間はちょうど朝陽が逆光で、目がくらみやすいと聞いたことがあります。ゆえに早朝ということもかんがみて、田舎好きな観光客が起こした事故だろうとふんでいたのですが、それはまちがっていました。これもあらためて言う必要はありませんが、わたしは近年のこの地域の観光化に対して反対ですし、その立場が今後変わることもないでしょう。その理由は以前述べたとおりです。話を事故にもどせば、あれは市街地から来たヤンキーによる自損事故だったのです。死亡者が出たかどうかは聞きませんでした。そんなことにさほど興味はないのです。どうせ酒でも飲んでいたのだろうと温子は言っていました。同感です。温子はやはりこの町一番の情報通なのです。温子から電話があったのは音がして、二十分くらいしてからでした。彼女の声のうしろから、しつけの行きとどいてない犬たちのきゃんきゃんはしゃぐ鳴き声が聞こえて、とても不快でした。まったく毎日毎日何をそんなにわめく必要があるのでしょう? わたしは感情をおくびにも出さず、みじかい相づちだけでだいたいの会話を済ませました。わたしたちはもう何年もこんな具合なのです。向こうからすればわたしの様子を気かけ、もっと言えば面倒を見ているような気ですらいるでしょうが、実態はまったくの反対なのです。たしかに毎朝わたしは彼女からの電話を待っていますが、それはもちろん彼女との会話を楽しみにしているわけではなく、彼女が無事に生きていることの確認、いわば生存確認ですね。向こうがそうしているようで、じつはわたしがそれを実行しているわけです。この意味を慎重に検討していただきたいところです。神と祈りの関係についてもおなじことが言えるのではないでしょうか、つまり無数の祈りが神をかたどる、と口にすれば恐れおおいですが、そういった側面があるのは事実だとおもいます……」

気まずそうに口をつぐんだ彼女は紅茶をそれまでよりおおく口にふくみ、時間をかけて飲みほした。一度立ち上がり、カップをキッチンのシンクまで持って行った。その際の顔つきは疲労がにじみ出ているせいで、年齢より老けて見えた。先ほどまでたたえていた気品や凛々しさはどこにもなかった。カップを持つ手のふるえにより、ほとんど使用しなかったティースプーンがかちゃかちゃと小刻みにゆれた。リビングは朝のひかりに満ちていたが、暖簾で区切られたキッチンは横長の窓からあかるさをうまく取りこめないため、すこしだけひんやりとしていた。換気扇の作動音がしずけさを強調した。カップをシンクに置くと、ふだんよりものものしい音がした、と感じ眉をしかめたが、それもふくめありきたりな日常だった。外から蝉の鳴き声がよわく入りこんでいた。

彼女はふたたび席に着くと、おおきくため息をついた。気だるそうな両目は眠そうにも見えるが、彼女自身その肉体に秘めた恒常的なまどろみにはまるで無頓着だった。自身では睡眠を充分に取っているつもりなのが問題だった。心身の疲弊から生じる誤りは老いによる衰えとして傍目にうつった。誤りのほとんどは痛々しく、時に彼女という存在から目をそらさせる要因となっていたが本人はそれを悟らなかった。ただ、元気な時は目を宝石のようにかがやかせた。聡明というより無垢な表情で、赤子よりも体力のない目だった。老人特有の透明性と相まって、そのまま死へと移行するのではないかと、ただの物質と化してしまうのではないかと危うさが常に付きまとった。その危うさは靭性の低い鉱物が持つ脆さに似ていた。

ふかい呼吸から地つづきにことばを放っている。うなり声を引き延ばしたように、ぼそぼそと話していたが、しだいに声量は回復した。

「そうです……視線をうつした時には、もうおそかったのです。そこに人影はなかったのです。わたしはじぶんの目をうたがいましたが何度目を凝らしても人影はおろか、動物の姿さえ見えませんでした。太陽がよりつよく照りだして、あのガードレールはもうほとんどひかっているみたいでした。わたしは身ぶるいしたのです。さっきのおおきな音で事故をはやくも連想していたわたしはあの人影を死神だとおもったのです。鶸のような色した服を着ていたはずですが、今となってはもうおぼえていません。それにしても何故身ぶるいなんてしてしまったのでしょう? 今さら死を恐れているわけでもないのに、むしろ待ち望んでいた時期があれほど長かったのに……おそらく不吉なもの、死を連想させる何かしらと、死そのものとは無関係なのです。たぶん、そうです。そうじゃないと説明できないもの……ああ、そうです、気を取り直したわたしは深呼吸をはさんでから朝餉を摂り、それから温子から電話がかかってきたのです。朝餉はやはり……どうしても味をひときわうすく感じてしまいます。もちろん身体のことを気づかって塩分をすくなくしています。味噌汁はまだ風味もあって美味しくいただけたのですが、煮っころがしはだめでした。昨夜の残りですから、常識的に考えれば昨夜より味はつまっているはずなのですが、まったく塩味を感じなかったのです。わたしは脳裏に浮かべた死神のイメージにとらわれていましたから、じぶんの衰えを、死を、より不吉なものと密着させて考えてしまったのです。約束の場所について、あれほど丁寧に教授していただいたにもかかわらず申し訳ないです……じぶんを恥じ、卑下するのは意味がないとおっしゃるかもしれません。また、充分に善行を積んできたと慰めてくださるかもしれません。けれど、わたしは自信がないのです。わたしはあの人を最後まで愛することができませんでした。それは果たして形式的な行いで埋められるものでしょうか? あの人はわたしを許してくれるのでしょうか?」

彼女の目は涙にうるみ、食卓上の竹製のケースに入ったティッシュボックスから二枚がさねのティッシュを二度引き抜くとそれを丁寧にたたみ、目元をかるく押さえた。涙のことごとくはティッシュへとしずみ、鼠色のしみとなった。彼女のいびつな皺をなぞる透明な筋はどこにもあらわれなかった。涙はすでに乾いていた。歳をかさねたからとて、もとからゆるかった涙腺がさらにゆるくなることはなく、感情のうつろいやすさに比例してにじんだものが乾きやすくなるだけだった。用済みのティッシュを握りしめたままはげしく咳ばらいをした。最後に唾を飲みこんで喉にからんだ痰のほとんどを取りのぞいた。ランチョンマットの端にあった飲薬用のグラスを手に取り、飲みかけの水の最後の一口をくいっと飲みほした。細く筋張った首の青白い血管は陽のひかりにさらされ、別の生き物のようにうごいた。

「それにしてもわたしは何故じぶんにしか通用しない文言をきらうのでしょうか?  たしかに説明の際にことばが不足することはありますが、わたしが恣意的に何かをはぶいて口にすることはほとんどないはずです。わたしは昔から客観的なものが好きでした。都会より田舎を好み、団欒や喧騒より静寂や厳粛を好んできました。今まで何度もくり返し伝えてきましたが、わたしはどんな場所でもじぶんのいる位置からはじまる透視図を脳裏に描いてしまうのです。人や物の位置を鳥瞰して、何かとてつもなくおおきな営みに触れているような気になるのです。それは受けてきた教育と何かしら関係があるのでしょうか?  ひとつ言えることはわたしとあの人は同郷人で、いわば幼馴染だったということです。ふたりの気質のへだたりはそのままあの時代の男女の差だった、と近頃はよくおもいます。今にして思えばふたりが一番幸せだったのは小学生の頃でした。わたしの方がいくぶんか背が高く、意地っ張りで、傲慢だった頃です。わたしたちは対等に話し、ふざけ、ささやき合っていました。そこに恋愛の緊張はなく、たがいに異性の先生へのあこがれを抱いていたはずです。裸を見ることも見せることもためらいませんでした。そこにはあの人の成長? 性徴? がおそかったことも影響しているはずです。ところが、中学校に進学すると状況は一変したのです。まずクラスが別になってしまいました。小学校ではずっと一組しかなかったのが、中学校はいきなり四組編成となったのです。小学生までわたしたちはいわば四つに分裂してしまったのです。その分裂を喜ぶものもいれば、すぐに慣れるものもいましたが、たぶん、わたしだけが最後まで馴染めなかったのだとおもいます。もちろん学校生活は難なくこなしましたよ。成績だって優秀でしたし、クラスメイトとも仲良くできました。けれどこころのどこかはいつも満たされなかったのです。あの人は中学校に進学すると嘘みたいに背を伸ばし、声を野太くしました。率直に言って、気味が悪かったです。野球部に入って、亀の子たわしのような浅黒い肌を誇らしげしているのも嫌でした。もちろんわたしもしだいに子どもの身体から大人のそれへと変化していましたよ。けれど、それは小学校の頃から予兆があったのです。あの人の場合はほんとうにいきなりと言うか、雨後の筍のようで……それにあの人は露骨にわたしを避けるようになりました。わたしはずっと交流の機会をうかがっていましたが、いい加減意地を張るのにも疲れて、挨拶さえしなくなったのです。わたしたちはあの頃からすでにたがいの名前を呼ばなくなっていました。夫婦というものがそれで成立するのだから不思議なものです。じっさい、自由恋愛なんてものは虚構なのです。すくなくともわたしにとっては。あやふやな感情が、既存のやり方、つまり婚姻という制度に引きわたされることでかろうじて態を成しているだけの話です。自由恋愛の歴史はあさいのだと、それだけは若者たちに伝えたかったのですが、結果変わり者だとうとまれるだけでしたね。学生時代のわたしもおそらく聞く耳を持たなかったとおもいます。つまり若さとは向こう見ずでいられることです。恐れを知りながら恐れないことではないのです。中学二年生の春、藪から棒に告白してくれた遠藤くんと付き合って、デートをかさねました。何も、何ひとつ楽しくなかったです。遠藤くんは髭が濃くて、どことなく父を想起させました。彼との口づけをかたくなに拒んだのはそのせいでした。口づけは処女の命、母にそう言われたことをおもい出し、躊躇したわけではありません。母は奔放な姉をずっと憎んでいました……そんな話も以前にしましたよね? 結果、わたしは母の願いどおりに生きてきました。それはわたしの選択がたまたま彼女の願望とかさなっただけで、作為の介在する余地などありませんでした。けれどどうでしょう、わたしと姉の人生はどちらが豊かでしたか? わたしはもうとっくに思い出の世界を生きているのです。わたしに白紙の未来など必要ないのです。わたしに残されたすべての未来は過去を反芻するための時間なのです。おわかりでしょう? わたしにとって最大の幸福はあの人との間に子を成さなかったことです。わたしがあの人の肉体を愛する時期と、あの人がわたしの精神を愛する時期があまりにもはなれていたのです……下手すればそれは四半世紀もの……ああ、もうこんな時間ですか。今日はゴーヤとミニトマトの収穫日です。ゴーヤは去年より大ぶりで、ミニトマトも張りがあって美味しそうです。キュウリはきれいなヒトデ型の花を咲かせました。梅雨頃のうどん粉病が嘘のようです。植物たちは今日も元気に陽のひかりを浴び、彼らのみじかい一生をまっとうするための一日を必死に生きるのです。ああ、また涙がこぼれそうです。もうわたしはじぶんが何に涙し声をふるわせるのかも……何も、何ひとつわからないのです。わたしは今、じぶんの育てた植物たちに愛着、いや愛情を感じています。わたしたちの間に子がないことは幸運でした。子というおぞましさ、親というおぞましさ、子をうしなう可能性の絶望、子に見捨てられる絶望……もうたくさんなのです。わたしは子でも親でもないのです。わたしは、ただちいさく祈りをささげるものでありたいのです。絶対者である神は子を一度も生まなかった。神が子を成す必要などあるでしょうか? いいえ、やはり教会はただしいのです。今年は茄子がとてもいい塩梅で実っています。秋には供物として本部にお届けできるとおもいます。今日も神と教会に平和の祈りをささげます。八月六日、朝。戦争が終わったあの日まであと九日」

最後のことばを言い終え、ボイスレコーダーのボタンをふたたび押し、側部にある電源スイッチをオフにしたところでおおきく息を吐きだした。この吐息には充足感と今日一日に対する熱意がこもっていたが、そこには死への不安がかすかにまぎれていた。欠伸をしながら皺だらけの右手で口元を隠した。目を閉じればうるんだ瞳から一滴の涙がこぼれた。まぶたをやさしく開いた両目は透明な生気に満ちていた。

農作業のための着替えや支度を終えるのにさほど時間はかからなかった。道具の大半は畑の近くの納屋に置いてあった。春先に買った麦わら帽子はまだ色褪せておらず、玄関の帽子掛けからぶら下がっているのを確認しても、かたちをぴんと保っているのがすがすがしかった。ほうじ茶と氷の入った水筒を肩から下げると肩甲骨まわりの筋肉がきしんだ。傷だらけのバケツと土の付着した軍手をたずさえ、ドアを抜けるとまだ午前八時過ぎにもかかわらず白昼めいたつよいひかりがアスファルトにさんさんとふりそそいでいた。電柱や木々の陰影が焼き付けたかのように濃かった。近くから蝉や鳥の鳴き声が聞こえたが、意識はどこか茫然としており個々の判別がつかなかった。気温は多少上がりはじめていたものの標高が高いため本格的な暑熱とはほどとおかった。これから趣味とも仕事ともつかない「ただの作業」へと向かうというのに足どりは重く、覇気がなかった。彼女は先ほど口にした自身のことばを反芻しながら、その行為に没頭していた。ボイスレコーダーのボタンを押した時以外は必要最低限のことばしか、いや、必要最低限のことばさえ発さないのが彼女の日常だった。このボタンはボイスレコーダーを起動させるためだけのものではないのです……これもすでに収録したことばだった。十二歳で四つに引き裂かれて以来、彼女はずっと何かに人生をささげたがっていた。それはきわめて原初的な欲求だった。

歩をすすめながら四十三年前のせまいアパートでの同棲生活をおもい出していた。壁のうすい木造建築だったものの角部屋で隣人がなかったため、夜半過ぎや休日の昼間は閑静だった。若くして夫婦となったふたりに会話らしい会話はなかった。愛情をすでに終えた者と愛情の芽を無自覚にはぐくむ者が共同生活をすることにはやはり無理があった。ふたりして自身の結婚を恨んでいた。たがいの家の事情など知ったことではないと両家の関係に対する憤懣だけが皮肉な共通点だった。夫が仕事を終えて帰宅するとそこにはいつも気まずい沈黙があった。夫は自宅の玄関を抜ける前にかならずおおきなため息をついた。夕餉の準備やその他の家事、行うべき仕事を終えた妻は家の中で何をするでもなくじっとしている、テレビもつけず、本を読むでもなくただじっとしている、座布団の上で正座し、窓の外を、と言うより虚空を見つめている―ドアを開ければ想像した妻の姿が、想像したとおりにあった。飼っていた猫だけがのんきにあくびをしたり、平気な顔で物音を立てたりした。おかえりなさい、とかわいた声がひびけば、ただいま、とかわいた返事があった。二十代にして顔面から疲れの相が消えなくなった夫は猫にだけ頻繁に笑いかけた。それを横目で確認する妻は、その笑顔がほんとうはじぶんにも向けられていることを知りながらも鈍感なふりして夕餉をあたためた。ふたりは猫の世話を通じてのみ断片的な会話をするようになっていた。家々の塀をつたってベランダにやってきた野良猫を妻が無断で飼育しはじめたとき、夫がそれをすんなり受け入れたことを契機としていた。休日、パチンコや競馬を理由に家を空ける夫を妻は恨まなかった。顔を見ない方がたがいのためなのだと考えていた。意図的に距離を置いていると猫をとおして、たがいのことをおもいやれるようになった。そうなるためにかかった幾年もの時間の中で猫はどこからからか子種を授かっていた。夫は家猫にしているのだとばかりおもっていたが、妊娠を告げる妻の冷たい態度にふれて、実態をそれとなく悟った。

あの子猫たちをすべて死なせてしまったのはわたしの責任です、ふだんよりも急いで帰宅すると妻は居間の座布団に正座し、窓の外に顔を向けながら泣いていた。一週間前まで大勢でかしましく鳴き声を上げていたのが嘘のようなしずけさだった。生後からまもなく子猫は下痢や嘔吐などの体調悪化に見舞われ、みるみる数を減らした。主な原因はあきらかに母親の不在だとおもえた。長時間にわたる出産のあと、終始すずしげな顔をしていた母猫は体力を回復できず、そのまま息絶えてしまった。嘘だ! 十日前に訃報を耳にしたとき、夫はそう叫んだ。もう何年も母猫とたわむれてきた夫には、それがどうしても現実のこととはおもえなかった。またどこかからふと顔を出すのではないかと期待を捨てられなかった。それは二年後にアパートを引っ越すまでずっとつづいた。その感覚のまま部屋の中の静寂と対峙していた。母猫のことは虚偽としかとらえられないにもかかわらず子猫のことは直面した刹那から絶対的な事実なのだとおもえた。そのいびつな心境が夫からしばしことばをうばっていた。妻の水仕事で荒れた手に握られたタオルは特段よごれているようにも見えなかったが、汗や涙を吸いこんだせいでひどくくたびれていた。妻の涙を目にしたのがずいぶんと久しいせいで夫はあっけに取られていた。声をかけることも忘れ、ハンカチをわたすでも抱きしめるでもなく、ただ泣き顔を呆けたような顔つきで観察した。もとよりしろい頬や首元はうす紅色に、鼻っぱしらはより濃い朱に染まっていた。妻の涙を目の当たりにしても夫は妻による母猫や子猫殺害の可能性をわずかにうたがっていた。それを口に出すこともできなかった。妻は夫の沈着な態度に内心怒りを燃やしていたものの、たった二週間足らずで猫の親子がことごとく死んでしまったことに責任を感じていた。家猫にしなかったせいだろう、お前が殺したんだろう、茫然とおおきく開けた夫の目はそう訴えているように見えた。充血した白目やしどけない口元からのぞく舌が蒼白した顔面を金魚のように泳いでいた。妻はその形相を横目でしか確認しなかった。

何をどうまちがっていたんだろう……そんな自問自答をすることも最近はめっきり減っていた。とつぜん視界がまぶしくなり、熱を感じた。道路の両脇には他人の畑が広がっていた。人気のない路上で視線を落とす彼女はじぶんが広葉樹の成す日陰を歩いていることをすっかり忘れていた。目を細めながら前方を見やった。名前を知っているはずの老婆がシルバーカーを押しながら歩いてくるのが見えた。六輪使用のシルバーカーは前輪のタイヤがひとつゆるんでいるせいでキャスターが安定せず、ひどく押しづらそうだった。老婆の年齢は彼女とさほど変わらなかったが、ことごとくの髪が艶もなくしろくなっているせいで、また腰が気の毒なほど丸まっているせいでずいぶんと老け込んで見えた。その老婆を見かけるたびにおぼえる優越感がふつふつと湧き起こるのを彼女は感じた。しだいに距離がちぢまるにつれ路上を低くさまよっていた老婆の目線は彼女をとらえ、すれちがう前にふたりして立ち止まり朝の挨拶とかんたんな談笑を交わした。

「礼子さんおはよう。今日も精が出るねぇ」

「おはようございます。おたがい様じゃないですか。暑くなるみたいなので熱中症に気をつけましょうね」

老婆は感情の読めない顔つきで何度もまばたきしながらうなずいた。褐色の顔面は大木の樹皮のようでも干ばつした大地のようでもあった。口元がうごくたび皺はいっそうふかく刻まれた。

「旦那さんは今日もお家におるんかい?」

「ええ、そうです。誘ってはいるんですが……」

たわいもない話がすむと、ふたりは無事にすれちがった。礼子にはどこか無理してことばをつむぐ感覚があり、紋切型のやりとりを終えたと認識すればおもわずため息がもれた。あの人はそれでもまだ話しやすい方なのに……数十秒後にふと振りかえると老婆の背中がいやましちいさく貧相に見えた。いったい朝からどこに向かうというのだろう? 老婆に「旦那」が死去したことは何度もつたえたはずだが、すぐに忘れてしまうのが習いとなっているためもはや訂正することさえしなかった。でも、それもしかたないわ……非難する気になれなかったのは会話していれば自然とおもい出すはずだと慢心していた相手の名前がまるで浮かばないせいだった。前を向きなおし、先ほどより軽快な、それでいてしっかりとした足どりですすみはじめた。広葉樹林のひんやりとした陰影にふたたび呑まれ、すこし行った突当たりを左に曲がればそこから先は舗装のない畦道だった。礼子の古びた納屋とその隣の小ぢんまりとした畑はすぐさま視野へ飛びこんだが、老眼のせいで焦点を合わせるのに時間がかかった。でも、それもしかたないわ……礼子は先ほどの会話で老婆が「旦那」の名前を口にしなかったことをいぶかしんでいた。日常生活の中でその名前を聞く唯一の機会だった。耳にしてから数十分の間しか夫だった人間の名前を記憶にとどめることができなかった。礼子はその事実に罪の意識など感じなかった。すぐに忘れてしまう名前なんて残りすくない人生において何の意味があるでしょう? 夏のかわいた土を踏みながらぼやけた景色がじょじょに明晰になっていくのを感じていた。かるくしめった小枝のぱきぱきと折れる音が足元から聞こえた。畦道の左側の広葉樹林から唐突にキビタキのみじかい鳴き声がひびいた。礼子は自身の所有する畑に玄人めいた真剣なまなざしをおくっていた。もはや今日の収穫のこと以外頭になかった。木々を大仰にゆらす突風が吹くと、真剣なまなざしのまま風の来た方向に目を向けた。その時になってようやく麦わら帽子を玄関に忘れたのだと気づいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 四

 

 市街地を奥にひかえた河川のおだやかな水面はわずかに波打ちながらスパンコールのようなかがやきを放っている。風はほとんどなく、木々のざわめく音は聞こえない。しかし耳をよく澄ませばかすかな葉擦れの音や、何かしらの動物が草をかき分けて歩行する音が聞こえるはずだ。山鳥はそれぞれの鳴き声をまるで感知しないように気ままに、方々で発声している。オオルリキビタキなどのかん高いひびきがほとんどではあるものの、時おりクロツグミの口笛に似たさわやかな美声や、キングペンギンをデフォルメしたかのような見た目が愛らしいルリビタキの祭囃子を想起させるさえずりが高い位置からふってくる。背の高い木々の密集した麓ではアブラゼミが休むことなく合唱している。より低く無機質な音で鳴くクマゼミはそれと混じることを恐れるように別の場所で群生し、声を上げている。道路上部の崖にいる一匹のツクツクボウシがかぼそくも抑揚ある声で二種類のノイズにアクセントを加えている。切り立った崖から枝を伸ばすモミの木はわずかに、それでいて大胆に傾いでいる。ツクツクボウシは華奢な枝にぶら下がりながら逆さまの空を見つめている。山あいの上空を高く発達した積雲が湧き上がるように肥大化しながらうごいている。風に流されているはずだが、遠目にはそれ自体意志を持って移動しているようにしか見えない。どれも入道雲と呼ぶにはまだまだおおきさが足りない。今現在雨がふりそうだとみじんもおもえない。しかしゲリラ豪雨とは語義からしてそういった場面でとつぜん去来するものだ。今は何をどう警戒できるだろうか? 手を伸ばして路上をおおうカエデの枝ぶりが投網のような木洩れ日を成している。葉はどれも萌葱色をして、太陽のひかりにほんのりと透けている。ちいさくも天狗の団扇のようなかたちをしているせいか、枝の何本かがささやかにゆれるだけで幾千もの葉にあおられた気分になる。日はしだいに高くなり、あらゆるものの色や影を濃くしている。例外的にアスファルトだけは色褪せ、白みがかっている。河川の手前の田園を格子状に区切るせまい一車線道路を軽トラックがとことこと走り、路肩に停車してあるうすよごれたワゴンカーを追い越していく。背を伸ばした出穂期の青苗は河川のおだやかな波よりすばやくうねり、点在する人や案山子の足元をさらっている。朝方より色をうすめ、つやめいた稲田は風になびく毛皮のようだ。軽トラックのすくない積み荷や端のほつれたブルーシートはがたがたとゆれ、まとった砂埃やこまかな砂利を振り落としていく。比例してよごれる荷台では振動にあわせて砂利がはねる。電柱同士をゆるくむすぶ電線が軽トラックの行き先を案内するかのように延々とつづいている。機械的な顔をしたスズメたちが留まったり羽ばたいたりをくり返している。さらに高い位置で田園をななめに横断する数本は一本一本の間隔がひろく、鉄塔同士をむすんでいる。鴉の威圧的な鳴き声がふってくるので反射的に視線を上げれば、トンビが上空を悠々と滑空している。視覚と聴覚のたわいない齟齬を受け流し、しばしその滑空に見とれる。トンビの指笛に似た鳴き声はどこからも聞こえず、ツクツクボウシのかぼそい声がいっそうつつましい。中腹の鉄塔へと向かう電線が視界にちらちらと入りこむ。電線は国内のいたる場所をむすんでいる。

感傷的になりはじめたところで一郎はじぶんが足を止めていることに気づいた。ふかい息を無意識のうちに吐きだしていた。しばらく五感と一体化していた思考があてどなくさまよいだすのを感じていた。じぶんの想いが電線をつたって、だれかにとどく想像をしていた。しかしどんな想いがどこへ、だれの元へ向かうというのだろう? 里実や祖父の顔が浮かんだものの、すぐに消えた。おのれのベタでありふれた思考に嫌気がさした。

びぃ~む、と声を作為的にふるわせながら人差し指の先端をこちらに向けるカオルの生意気で愛らしい表情がふと浮かんだ。カオルはまだ小学四年生にもかかわらず施設の中の子どもたちの中でもっとも長く滞在する部類に属した。体格はどちらかと言えば華奢で、身長はほとんど平均的な値だった。少年野球用の軟球でカーブボールを投げられるのが自慢だった。うねりのない髪を長く伸ばしており、それは一郎や好きな歌手にあこがれているだと冴子は口にしたが真相のほどは知れなかった。顔を洗うのを嫌がるせいで目やにがよく目元や頬に付着していた。爪を不潔なまでに長くしているのはその方が何かと便利だからだと目を三日月のようにして笑った。勉強が何よりもきらいで、まともに宿題をやったことなどないと本人や周囲から聞いた。体育と図工の授業だけまじめに参加するのは何故かと問えば「そりゃ一郎くん、楽しいからに決まってるやん」と無垢で不細工な笑顔で返した。両科目ともさほど得意なわけではないらしい。最後に会った時は印象的な八重歯がぽっかりと抜けていた。痛々しい見た目など意に介さぬ様子で無邪気にはしゃいでいた。ぐらぐらしてうっとうしいからじぶんで抜いたのだと誇らしげだった。歯のない歯茎に舌先を押しこんで、指でさわっていた。走ったらな、ここすーすーすんねん。

癇癪持ちで、たいした理由もなく暴れるだけならまだしも、時おり収拾がつかなくなるほど泣きわめくのだと職員ふたりから聞いた。何が悲しくてつらいのか、本人にもわからないのだという。何時間も大声を上げて泣き、疲れて眠ると翌日は何事もなかったかのようにけろっとしているらしい。カオルの指先から放たれるびぃ~むは相変わらずだれにも見えなかった。

前ぶれもなく湧き上がる負の感情をどうにか処理にするために泣くしかないのだと直感した。それは下手すれば憐憫の皮をかぶった残酷な卑下なのかもしれない。しかし、たしかな強度で察知したのは事実だった。その事実を取り消せないため施設に身を置く間はカオルを注意ぶかく観察するようになった。学校の同級生や上級生には喧嘩腰で、たえずもめごとを起こしていたが、下級生や知的障害を持つ者に対しては面倒見がよく、文句を言いながらもやさしく接していた。子どもたちの内には親に捨てられたという絶対的な過去が消えない傷として生々しく残っていた。それはあまりに無防備な、隠そうとしてもなお無防備な痛々しさだった。世間の風は容赦なくそこに息を吹きかける。逃げ道なき彼らは痛みにこらえるより他ない。袖口のほつれた毛玉だらけのセーターを、手垢まみれの古いおもちゃを、ぶあついワッペンだらけのジーンズを、裏山のわびしい秘密基地を、庭で飼育された年寄りの雑種犬を、その温厚なまなざしや黄ばんだ歯列を、彼らは受け入れるしかなかった。おおげさに文句を言う者とそれを叱る者はたがいを必用とし合った。両者でなされる行為は各々の内なる葛藤の影絵だった。あらゆる憎しみはじぶんへとはねかえり、あわい期待の大半は悲しみと化した。子どもたちに対する憐憫と愛情がこみ上げるのを感じた。彼らを全力で肯定しようとする正義感らしき熱情がこぶしをきつく握らせた。しかし同時にじぶんが情けなく、みじめな存在におもえた。意識するでもなく伏し目がちになり、視界は何をとらえるでもなく麓の木々をうつした。ゆっくりと、ふかく目を閉じればキビタキの鳴き声が近くから聞こえた。全身から不眠の気だるさと疲れがどっとあふれ、こぶしにはもうまともな力さえ入らなかった。掌がいやにべとついていた。

鼻緒と擦れた部分は出血し、脂汗と入り混じった血はぬらぬらとひかっている。痛みは絶え間なく、脈動のたびに患部がうずく。増していく痛みと熱が思考を単調なものにする。喉はどうしようもなくかわいていたが、空腹かどうかはわからない。あの車はおれを轢かなかった、恨みもなくおもい返す。あの時本気で轢かれようとしていたのかと聞かれれば、そんなことはなかったと答えるしかないだろう。何せ実際には轢かれなかったのだから。カーブを予想以上にふくらんで来たなど言い訳にすぎない。結果がすべて、使い古されたことばはどのような局面でも適応できるのだと納得すると自嘲的な笑いが自然ともれる。ただあの時はじぶんが轢かれることを必然だとおもった。しかしこの人生で必然とおもえたことが実現した試しなどあっただろうか? 山肌を沿う路上におおきな風が吹くと重たくしめったTシャツの背面はふくらみ、黒髪についたちょっとした寝ぐせは押しつぶされながらなびく。汗にぬれた布地はもはやクリーム色ではなく、加熱した南瓜のような色をしている。前髪がゆれるとこころなしか視野のひらけた感覚があり、反射的に目を凝らす。

河川のおだやかな水面が、わずかに波打ちながらスパンコールのようなかがやきを放っている。うつうつとした気分が急速に抜けて行くのがわかる。肉体のにごった呼吸とその律動が否応なしにはっきりと自覚される。手元にカメラのないことが惜しまれ、両手の指がもどかしそうにうずく。こんなとつぜんの気散じが一過性のものだということは重々理解している。しかし、それでも……振りかえりつつ一歩前へ踏みだすと痛みがより現実の感を持って足指からしみた。疲れてはいるものの、その場でへたりこんでしまうほどではなかった。おれはこれからも生きていくのだろう、漠然とした予感が立ち止まる前よりも歩調を軽快なものにしていた。会いたい人の、目にしたい顔がいくつか脳裏に浮かんだ。かつて流行ったアニメの悪役が使用する技名をちいさく口にした。かすれた声が喉元でわだかまった。だれかの指先からビームが出るとおもえた時代はとうに過ぎていた。太陽はすでに高くのぼっていたものの、その姿を視認できなかった。ゆるやかなカーブの先の日陰へと踏みこむと二種類の蝉の合唱が全身にやさしく突きささった。ツクツクボウシの声は聞こえなかった。通ってきたはずなのに初めて来た道の上だとおもえた。いやに碧の映えた山々の輪郭がそれぞれささやかなひかりを帯びているように見えた。とおくの中腹に抱かれた鉄塔は気の毒なくらいちっぽけで、偶然できたひっかき傷のようだった。さほど珍しくもない山あいの風景が非常にうつくしく見えたのは山のかさなりやうねりが裸で横たわる里実の肉体を想起させたからかもしれない。山脚と尾根の具合はしまりのあるヒップライン、奥の大峰のかたちは右耳、それぞれ里実のものによく似ていた。今なら人物写真をうまく撮れるような気がした。今まで趣味じゃないと人に向けてシャッターを切ることをことわりつづけていた。けれど、今なら……里実の笑顔をフィルムに収めたいと欲望が湧いた。そのためにおれはもどるんか、あまりに気障な理由だと笑った。写真が世界の実相を切りとれないことも、そこに写った顔を信用できないこともとうに知っていた。カメラで切りとるまでもなく、あらゆる瞬間はまやかしだった。まやかしに息吹を吹き込むのは撮影者の意思であり、吹き込まれた息吹に価値をあたえるのは鑑賞者だった。シャッターを切れば切るほどフィルムに残る映像はフィクションと似ていく。

壁のように反り立つ斜面がなす日陰の心地よさを味わいながら歩をすすめるうちにペンションの密集した一画は遠景として、いつの間にか視野の内に侵入していた。一画は光芒を浴び、浄化されているかのようだった。林間をがむしゃらに反響する蝉声にもはや区別などなく、身体をとおり抜け、傷口の痛みを緩和するような錯覚が生じた。舗装のない崖の付近、地を這うように群生するカタバミにまぎれ、色素のうすいラベンダーが小ぢんまりと咲いていた。往路ではまったく気づかなかった。一度気づくと、おのれの呼気にまじって独特の甘さが鼻先までとどいた。色合いやかたちもふくめ、あまり好きな花ではなかったが撮れるものなら撮っておきたかった。それは自身のためというより里実のためだった。もっとも好みかどうかは知らなかった。里実と草花の話などしたことがなかった。往路でかすかに吹いていた逆風は復路で明確な順風となり襟足をくすぐった。ここにきてやたらと目が乾き、比例してまばたきの回数も加速度的に増加していた。目の閉じる間隔がみじかくなると足どりもあやしくなった。しかし口元には笑みが浮かんでいた。古い映画のような視界の中でも行き先をしっかりとらえていた。猫に似たおおきな欠伸が自然ともれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 五

 

 透明な朝のひかりが食堂全体をやさしく照らしていた。陽が高くなるつれ、室内の翳は濃くなったがその分フローリングやテーブルの光沢は増し、せせらぎのようにかがやいた。もはや照明はほとんど役目をなさなかったが、壁に飾られた印象派風の風景画(セガンティーニを模したタッチで農園からのぞむ日本アルプスを描いている)や地元の風景写真(アマチュアの写真家が撮ったものをゆずってもらった)、旅先の台湾で気に入って購入した抽象画(白と赤のコントラストや奇妙なかたちで描かれた数本の曲線がいかにもミロ風の、というよりミロの複製画としかおもえないが何故か詳細を聞くことはなかった)は室内灯によってその表情をあかるくしていた。無論額に入れて飾られているため表面のガラスはしろく反射していたが、それは絵画や写真の価値をすこしも損なうものではなかった。閉じた大窓の向こうではおだやかな風が自生する楢の梢とたわむれ木洩れ日を庭先に落としている。活発なミツバチは鉢に植わったガザニアから蜜を吸おうと軽業師のように滞空している。鳥たちのさえずりはビュフェ形式の、品数はさほどおおくないものの一品一品ていねいにつくられた朝食の時間をいろどり、快適な空間を演出するのに一役買っていた。いつもどおりの、それでいて新鮮な朝の、だれをもよろこばせるはずのひと時に水を差す衝撃音が聞こえたのはすでに一時間以上前の出来事だった。救急車のサイレンが今やとおくに聞こえる。場所が辺鄙なため到着までに時間がかかるのはこのあたりの交通事情としてしかたのないことだった。しだいにはなれ、ちいさくなる機械音は老いつつある耳の機能を試しているかのようだ。

奈央子の言うとおり、左耳の調子はここ二カ月ほど芳しくなかった。自動車の破損のわりにたいした事故ではなく、四人の若者はそれぞれ軽傷ですんだと金やんは言っていた。おなじ経営者として金やんのうわさ話好きにはふだんからあまり感心しなかったし、関心もなかったが、有事の際にいろいろと情報を教えてくれるのはありがたかった。また野次馬根性からとは言え、近場の住民として現場の収拾に一役買ったらしく、それは素直に良い行いだと感じた。無償労働(だが金やんにとってほんとうに無償と言えるだろうか?)をねぎらうためにエスプレッソを抽出し、冷えた牛乳と氷でアイスカフェラテをつくった。金やんは礼を言いながら銅製のマグカップに口をつけ、そのままはなすことなく一気に飲み干した。カウンター席では一定の体重以上の人間が座るとかならずきしむ丸椅子がきぃきぃと鳴っていた。ぷはーっと豪快にマグカップをたたきつけるさまは小気味よかったが、食器の雑なあつかいにおもわず眉をひそめた。おおきな黒目を持つ顔はしろくよごれた口髭の印象もふくめホルスタインのようだとおもったが、口には出さなかった。金やんはこの店の提供するコーヒーの価値をわかってくれる数すくない同業者のひとりでもあった。酒や浴場にこだわるペンションは山ほどあったが、ここまで料理とコーヒーに注力するオーナーはそうおおくないだろう、すくなくともこの周辺には。こうした自負が仕事の細やかさに活きている、そう言われたことは何度かあり、そのたびに満足感とよろこびを噛みしめた。そんな時ほど妻の奈央子を愛おしくおもうことはなかった。たがいに白髪や皺は増えたが、こんな向こう見ずな亭主によくもまぁ文句も言わずついて来てくれたものだとこころの底から感謝した。ごっつぉさん、ここのエスプレッソはやっぱ香りが最高やな、ミルクで割ってもコーヒーの香りがしっかりしとるわ、そう口にした金やんは丸椅子から飛び降りるようにして立ち上がり、脱いでいた野球帽を持ち前の坊主頭に被りなおした。腹まわりのぜい肉がレタス色のポロシャツの内側でプリンのようにゆれた。真っ白なハーフパンツの下からのぞく腓はいつ見ても不自然なほど引きしまっていた。使い古したラ・マルゾッコ製のマシーンからはエスプレッソ特有の炒った胡桃のような香りがただよっていた。

「お、もう行くの?」

「おう、こっちも仕事せにゃな。お母ちゃんに怒られちまうわ。奈央子さんによろしくな」

そう言い終えると金やんは挨拶もそこそこに表庭へとつづくドアを開け、そこから出て行った。正式なエントランスとは別だったが汎用性は高く、業者や仕事仲間、友人など、つまり客以外の慣れた人間は主にそこから出入りしていた。表庭ではていねいに区分けされた鳳仙花、ペンタス、鶏頭、ブーケンビリア、松葉牡丹、ガザニア等が色づきはじめた日光を心地よさそうに浴びていた。水彩で描かれた宝石箱のようなあざやかさで見るものすべてに手をふっている。そうした印象を支えているのはみじかく刈った萌葱色の芝だった。表庭の管理を一貫して行う奈央子が熱を入れているため、年々進化しつづけている。花ごころなどまるで理解しなかった雄一でさえ、多少名前をおぼえるようになった。春先に散ってしまったがエントランスの小ぶりなアーチに絡みついた羽衣ジャスミンは非常に見ごたえがあった。奈央子の仕事の集大成でもあった。

入り口付近の壁にかけた鳩時計が唐突に鳴った。八時半を知らせるものだった。三十分おきに鳴る鳩時計は分針が〇を指す時と六を指す時で鳴き声やそれに伴う音楽を若干変えた。ゆえに他のものを参照せずとも時刻を知ることができた。ざらめ色をした木製フレームの鳩時計はいつかの父のドイツ土産で、店をはじめる際にゆずり受けた品だった。世界各国で鳩の鳴き声の擬音はことなるはずなのに人工的に再現された音はどれもおなじようなのがおもしろいのだと父は笑っていた。そんな父が亡くなってすでに二年半が過ぎていた。

たいした用もなかったがバックルームとつながる小窓から慣習的に奈央子を呼ぼうとして、ふと動作を止めた。今日は朝から同窓会のために出かけているのだった。こちらの手前わざと面倒くさそうにしていたが、内心楽しみにしているのを知っていた。ゆえに六月の誕生日にプレゼントの名目でパーティ用のサマードレスとそれに合うシューズを購入した。奈央子は目をかがやかせてよろこんでくれた。うれしい時に瞳をブランデーのようにうるませるのは出会った時から変わらないくせのひとつだった。素直な感情を素直に見せるところは妻の美点だと確信していた。今日のために奈央子がおらずとも店を回せるように準備していた。それに朝から彩花が店に来てくれていた。夏休み期間だけのアルバイトとして雇った彩花は古くからの知り合いの娘だった。このペンションをオープンして以来、地元民だというのに工藤家は毎年家族で宿泊してくれた。良き客人であり、友人であり、先輩である工藤を雄一はしたっていた。工藤もまた雄一を信頼しているため、娘の申し出に反対などしなかった。本来夕方以降の時間を契約していたが、今日の事情を知っている彩花は朝早くから出勤してくれた。地元の女子大学に進学してまだ半年も経っていなかったが、高校生だった時分よりもずいぶんと大人びて見えた。ほとんどはメイクのおかげだと母親が笑うのにふくれっ面をするあたり、まだまだあどけないと感じたつい二週間前から印象はさらに変化していた。三日会わざれば刮目して見よ、か。そうひとりごちた。子栗鼠のような丸い顔は愛嬌があり、肌理こまかい頬はつきたての餅のようだった。そう、まだまだ子どもなんだ、じぶんに言い聞かせるように脳内で言語化した。小窓からわずかに見えたのは八割ほどよごれを落とした皿やカップを業務用の食器洗浄機に並べ入れる彩花の姿だった。ネイビーのリボン付バナナクリップを用いて高い位置でくくったポニーテールが水風船のようにゆれているのは栗色の髪がつややかなためだった。ふだんおなじ業務を行う奈央子より背が低いため、どうしても幼く見えてしまう。ほほえましい気もちで見守りながら、あんまり無理しないでいいよ、おれもそっち手伝うから、と声をかけた。結局あれは一時の、若い時分にありがちな気のまよいなのだとみじかい息をつよく吐きだした。

雄一の頬や眦に刻まれた男性らしい笑い皺を目にすることは彩花にとっておおきなよろこびだったが、労働へと必死に取り組んでいたため振りむくことなく、はーい、と元気よく返事をしただけだった。ああいう時にもっと余裕をもって女性らしく、あでやかに応えるべきだった反省したのは次の鳩時計が鳴る直前だった。

しかし手伝うとは言ったものの、すぐにうごけない理由があった。奥のテーブル席にひとりで座っている女性客がおり、彼女が移動しないかぎりバックルームへと引き上げることはできなかった。それも明確なルールではなかったが、なんとなくこの日は意固地になっていた。九時半前からはチェックアウトする客がフロントに集中するため、朝食にかかわる業務をなるべく早く終わらせたいというのが本音だったが、そこは最悪彩花に代わってもらえばいいという頭があった。奥に座る女性客には昨日顔を合わせた連れの男性がいるはずだった。その男性がいつまで経っても姿をあらわさなかった。食事もろくに摂らず、かといってコーヒーカップに口をつけるわけでもない女性客の様子のおかしさには彩花も気づいており、どうかしたんですかね、とたずねられたが、とぼけて返した。旅行用に新調したであろう部屋着らしきマリンブルーのサマーパーカーと細身のジャージ姿のままでいること、一応メイクは済ませているもののやる気なくほとんどスッピンに近いこと、前日のような団子ヘアーではなくゴムで適当なポニーテールにしていること、雄一は状況や彼女の発する雰囲気から男性が行方をくらませたことをするどく察知していた。あの男には、どこかそういう危うさがあったな……それは自身の過去をかさねて出した結果だった。あのふたりは昔のおれたちに似ている、そう感じたのは今朝女性客をあらためて観察した際に彼女が過去の恋人と瓜ふたつであることに気づいたからで、男性客と雄一が似ていることはあと付けの認識だった。たしかに雄一は若い頃に痩せており髪も伸ばしていたが、顔つきがまるっきりちがった。しかし、あのするどい目つきは……男性客の生意気な視線をおもい出し、じぶんも若かりし頃はよくガンを飛ばしていると因縁をつけられたものだとおもい返した。レッジバーバーで丸く圧縮されたコーヒー粉は朱肉の蓋のようだ、湯と蒸気でぬれ、適度に詰まったホルダーを掃除しながら今まで何度も感じたことをふたたび感じた。スチームノズルを噴射し、専用のダスターで吹き上げたあと女性客の方へちらりと目をやれば先ほどから微動だにせず行儀よく、というよりむしろ無気力に腰かけているのが見えた。大窓から射しこむひかりが壁際のマントルピースにうすい斜線を引いていた。ディナー用のランプを並べ置いた象牙色の装飾品は存在しているだけで食堂そのものの品格を上げていた。

それにしてもよく似ている、視線に気づかれぬよう横目で顔をのぞいた。汐里、口の中で咀嚼するようにつぶやいた。それは長いあいだ、雄一にとって禁句とされてきた名前だった。いや、口に出してから禁句にしてきたのだと気づいた。しかし何故その名前を禁句にしなければならなかったのだろう? 一度口に出してしまえば無意識のうちに封じてきたことが馬鹿馬鹿しくおもえた。汐里、はっきりと、だがちいさな声で発した。今ごろ、どこで何をしているのだろうか……センチメンタルな想像は趣味ではないと走りはじめた思考を意図的に打ち切った。

あらかたの仕事を終え、最後の食器洗浄機をうごかしている最中、小窓から雄一のうしろ姿に視線をそそいだ。白シャツからのぞくみじかく刈られた襟足、がっしりとした長い首、きれいにたくわえた顎髭の一部が見えた。好きな眦の皺がわずかに右を向いていることでひとり残っている女性客の方を見ているのがわかった。ああいう大人っぽい人がタイプなのかな、けっして華のあるタイプとは言えないけど……そうおもったあと、今日一日、仕事に追われるであろう雄一にそんな余裕などないだろうと考えなおした。それに雄一が奈央子のことを大切におもっているのは近くにいて痛感することだった。しかしまた奈央子も決して華のあるタイプとは言えないのではないか? ペンションでアルバイトをはじめたばかりの頃は雄一にじぶんをアピールするための絶好の機会だと期待に胸をはずませたが、蓋を開けてみればどこにも入りこむ余地などないと落胆をかさねる日々がつづいた。先週の地元での花火大会、ふたりで缶ビールやつまみなどの買い出しをした際におもい切って想いをつたえてみたが、あいまいに流されてしまった。傷つけないようにと頭をそっとなでてくれたのがほんとうにうれしく、そして残酷だった。おもわず涙があふれてしまうとポケットからマジックのような早業でハンカチを取りだし、目元をかるく押さえてくれた。そういう振る舞いもふくめ、すべてに恋をしているのだとつたえたかったが、嗚咽をおさえるので精いっぱいだった。きっと雄一さんにとって、わたしはただの子どもで、それはどんなにわたしが頑張っても変わらない事実なんだ……そうおもっても、ふと目で追ってしまうじぶんがいた。恋は魔法、こんなにもじぶんを情けなくするものなのね、そんな安っぽい科白が安易に浮かぶのは「禁じられた恋愛」というものが古今東西にあふれているからだとおもった。みんな、どうやってこの切なさに耐えてきたのだろう? 相談できるのは大学内での新しい友だちだけだった。しかし本気で話を聞いてくれる者はおらず、いつも茶化されてまともな意見などもらえなかった。周りの女子たちはおしなべて同年代の男子に恋い焦がれているようだった。うまくいく子もいれば、そうでない子もいた。けれど、じぶんの抱いている感情に比べればどれも幼稚だとしかおもえなかった。これって傲慢なのかな? 自問自答しても答えはなく、学業やサークル活動に精を出すことでまぎれる部分もあったが、SNSで雄一の経営するペンションのアカウントの詳細を目にすればいつも胸がざわついた。アカウント管理のほとんどは奈央子が行っているらしく、ブログめいた文章と写真がまめに更新されていた。主には料理や内観、表庭の様子などを映しているものがおおかったが、時おり客人らと肩を並べる夫妻の写真も上げられていた。写真をまじまじとながめるたび、複雑な気もちになった。雄一にはもちろん、奈央子にだって好意を持っていた。それは本心であり、ふたりの関係をこわしたいとは一度もおもわなかった。さらに言えば、じぶんが奈央子を愛する雄一に惹かれていることもわかっていた。となればあきらめるしかないことはおのずと理解されたが、勝手気ままなこころは恋愛の十字架を背負いたがった。

水を使う音が止んで三秒ほどすると食器洗浄機はピーピーと鳴り、じぶんの仕事が終わったことを知らせた。すぐに開けると熱いからしばらく置いた方がいいと教えてくれた奈央子の、ひとの良さそうな笑顔が浮かんだ。ため息をついたあと、几帳面なところを見せるべく、キッチン回りの水滴をふき、布巾をよわい握力でしぼってからていねいにたたんだ。ただしいのかまちがっているのかもわからないこまかな道具の整理しながら、この場所での仕事にすこしは慣れてきたと実感していた。

せめて九時までは待つべきか、そうおもいながらグラインダーの清掃をはじめた。何度か空作動させ、コーヒー粉をドサーへと出し切った。一段とこまかくなった粉は空作動による振動に合わせて宙を舞った。何にも活かされることのなかった砂埃のような粉末はいずれ床に落ち、箒で掃かれ、塵箱に捨てられる。作動の余韻でカッターがもたつき、モーターが熱くなっているのを確認しながらホッパーをはずした。ふだんならば食堂もこの時刻までにぎわっていることがおおかったが、この日はたまたまどの客も食事開始時間を守り、早々と朝食を済ませていた。ゆえに大皿料理を乗せるための長机やポタージュ用の保温ジャーの片づけ、パイやパンのためのホットショーケースの掃除はすでに済んでいた。そもそも昨日の予約自体そこまでおおくはなかった。例年と比べれば売り上げの低調な夏ではあったが、特段心配しているわけではなかった。明後日からは大口の予約が連日で入り、満室状態がしばらくつづくことになっていた。奈央子にとっても今日はいい息抜きになるだろう。レバーやブレードに付着したこまかな粉をブラシで掃きとり、コーヒー豆特有の油分でよごれたドサーやホッパーをペーパーできっちりとふき取った。こうしたこまかな作業は好きだった。手入れを怠らずにやってきたおかげでグラインダーにせよエスプレッソマシーンせよ長く使用できているという確信があった。何度か女性客の方に目をやったが視線に気づく様子はなかった。雄一の注視はしだいに大胆になっていたものの、グラインダーはそれと無関係に手際よくみがかれていた。その様子を小窓から確認する彩花の凝視はさらに大胆だった。しかし雄一の気づく可能性はきわめて低いと考えていた。

拭き上げをもくもくとこなしながら思考は記憶の海をさまよいはじめていた。それは作業に熟練した者のみが会得しうるそつのなさだった。高校卒業後に横浜へと居をうつし、フレンチレストランで修業を積んだ。ハマトラの名残やバブルの影響もあり、レストランは繁盛しており当時から名店と名高かった。そこでの修業は四年と決して長くなかったが、基礎から応用までみっちりと仕込んでもらった。また慢性的な人手不足もあり、年齢の割にさまざまな仕事を任せてもらえた。年末には夜どおし仕事をしたこともあったし、店からほど近い下宿先へと丸三日帰れないこともあった。だが、当時は体力気力ともに満ち満ちていたため、そこまで苦痛とおもわなかった。同年代の仕事仲間ともうまく付き合えていたし、先輩からもよく可愛がってもらえた。ふたつ年上だった汐里は雄平から一年半ほどおくれてホールの社員として入社した。水商売らしい派手さはなく、細身で端正な顔つきをしていた。流行のファッションにさほど興味があるわけではないものの、こだわりはつよく、じぶんに似合う物品やメイクをこころ得ていた。周囲や本人から短大を卒業したと聞いた。専攻や就職に関して、くわしい事情までは踏みこまなかった。そんなふたりが恋仲へと発展するのにさしたるきっかけはなかった。気前のいいオーナーがスタッフに上がり酒をすすめるため、店内での小規模の飲み会が頻繁に行われ、そうした場を何十回か経ることで距離はちぢまった。しいて言えば、ふたりとも自宅が近かったためおそくまで残ることが、さらに二次会と称して夜の街へと繰りだすことができた。初めて口づけを交わしたのは真冬の中華街の路上で、ふたりともひどく酔っぱらっていた。何もおぼえてない、と翌日になって言い訳っぽく口をすぼませる汐里はしおらしく視線をはずした。それから正式な交際をはじめるのに一ヵ月もかからず、雄一が渡仏するまでずっと付き合っていた。その中でふたりの関係性もなめらかに変化した。付き合いたての頃は雄一が汐里にぞっこんだったが、じょじょに熱が冷めると逆に汐里が雄一に依存し、執着するようになった。交際を皮切りに汐里は垢抜けていった。年頃の女性にはよく起こりうる変身だったが、皮肉なことに雄一は汐里が最もうつくしい時期にその美貌を感受する能力をうしなっていた。他の男性からたびたびアプローチを受けた(中にはさわやかな風貌の商社マンや地主の息子もいた)ものの、汐里はかたくなにそれをこばんでいた。その事実だけが雄一を興奮させるようになれば、おのずと汐里から詳細を述べるようになった。関係性が変わっても表面上ふたりは仲むつまじかった。しかし雄一は汐里をひそかにうとましくおもうようになっていた。下宿先の合い鍵をわたしたこともあり、半同棲の生活がはじまっていた。汐里は両親との関係が芳しくないため、避難所的にアパートを使用していた。それがやたらときゅうくつに感じた。パートの主婦や先輩らにからかわせるのがすこしずつ苦痛になった。汐里の容姿に見合わないとしつこく言われるのも不快だった。仕事終わりに顔を合わせるのが嫌で後輩と共に飲みに行くことが増えた。ひとりアパートで待つ汐里のことはしばしば脳裏に浮かんだが、それを振りはらうようにして酒を食らい、名前もろくに知らない女性たちとさわぎ、明け方までおどった。月末、金欠になるとしぶしぶ自宅で夜を過ごした。対照的に汐里はうれしそうだった。その様子にさえ苛立ちそうになるのを安酒でごまかした。汐里はいかなる素行もだまって受け入れたが、明かりを落とすと背を向けて泣いた。そんな時は無視して眠ったふりをしたり、そっと抱きしめたりした。どちらにせよおのれの白々しさが鼻についた。肉体が体温を持っていること、ふたつかさなってぬくもりとなること、すべてが気味悪くおもえた。このまま体裁を気にして結婚するのか、そうおもうと絶望的な気分になり、目の前が暗くなった。亜麻色に染まった髪のにおいを嗅ぎながら気をしずめ、じぶんのために汐里の頭をなでた。

とある雨夜、例のごとく明かりを落とした寝室でむくりと身体を起こした汐里はつぶやいた。とつとつとふる雨に窓はぬれ、ふだんより若干あかるい部屋の内となった。輪郭や表情だけでなくワイン色に染まる瞳のかがやきまでもがはっきりと見えた。

「わたし、子ども堕ろしたんだ、高校の時」

横浜時代はいわば青春だった、口に出すことはないが、そうした認識は常にあった。奈央子と出会う前の話だった。奈央子と出会ったのはパリから帰国して神戸で仕事をしている時だった。海をわたったのは汐里から逃げるためだった。オーナーの知り合いから持ち掛けられた話にふたつ返事をし、二カ月後には堂々と異国の空気を吸っていた。周囲の人間にはおどろかれた、というより侮蔑をこめたまなざしをぶつけられた。後輩やパートの主婦らにはあからさまな無視もされた。還暦をひかえたオーナーと料理長はあくまでも業務に主軸を置き、それまでとおなじように接してくれたが、時おりかけるべきことばが見当たらないといった困惑を眉間の皺と共に浮かべた。しかし、どこか別の場所で勉強したいとおもっていたのは事実だった。まさかそれが国外になるとは想像もしなかったが。仕事終わりにあらためて、おずおずと、それでいて開き直った態度で報告した際も汐里は何も言わずに受け入れた。がんばってね、そう言いながら見せた微笑は常夜灯の、白藤色の明かり受けて雪のようにかがいていた。終わりかけた春の、ひときわ寒い一日だった。目元はわずかにうるんでいたようだが、それも今となっては定かではない。すべてはそのはっとするようなかがやきに吸いこまれていた。気まずさや、申し訳なさ、汐里を目にするとくすぶりはじめる正体不明の苛立ちさえ、つつましい微笑の前では無力だった。

汐里を見捨て、逃げた。その事実に弁解の余地などなかった。パリに着いてからも順風満帆とはいかなかった。たよりにできるものがあるかなしかの、それもほとんど錆びついたコネクションしかない異国では、おのずと半生を反省したくなった。あまりのふがいなさや孤独感から枕をぬらす夜もあった。思い出の中心には汐里がいた。いなくなってから気づく、そんな紋切型が胸にきつく刺さった。見おくりに来なかったことを恨むわけもなかった。住所や電話番号を書いたメモ書きはとうに捨てていたし、そもそも連絡を取る気もなかった。もろもろの悔恨はおのれへと向かい、血のように全身をめぐってから料理への情熱と変わった。それは長い時間をかけて結晶石が形成されるようなもので、しばらくは周囲の環境に流され、確固たる意志もなく生活していた。オーナーの知り合いに紹介された店ではコミュニケーションがあまりにもとれないため仕事にならず、皿洗いとホールの見習いからはじめさせられた。年下の、ろくに仕事もできない少年に聞き取れない言語で馬鹿にされ、顎でつかわれた。何故こんな場所にいるのだろう? 晴れた日には空を見上げることがおおかった。色のとりどりの、しゃれたアパルトマンが生活感をもって立ち並ぶ路地の裏からは貧困が見えた。背の高い建物はどれも奇妙なバランスで、自然を模してつくった書割ようだとおもえた。古びた建物同士をむすぶ丈夫そうな洗濯物紐と、そこに吊るされた白シャツやジーンズで区切られた青空は日本で見るものと何も変わらなかった。日陰がじめじめとし、低く冷たい風が吹くのもおなじだった。ただ行儀のよい雑踏を構成する人種だけが、威勢なく歩くというより浮遊するようにおどると表現した方が適切な足どりだけが、どこかしこからあわくひびく言語だけがことなった。裏口の水場で泥付きのジャガイモを洗っていると石畳の間から顔を出す雑草にこころを打たれた。とつぜんの出来事だった。ドクダミに似ていたが、においはまるでちがった。名前も知らない雑草を指先でなでながら湧き上がる感情を自嘲する気もちと、肯定する心情の間でゆれた。初秋の風に吹かれる洗濯物はすがすがしくなびいていた。

「……雄一さーん」

少々舌足らずな口調で名を呼ばれて振り向けば、彩花が小窓に輪郭をすっぽりとおさめ、こちらをじっと見つめていた。視線に気づいて表情をわずかにうごかす顔はやはり小動物のようだった。意識的かは定かではないが愛らしい上目づかいとなっており、同年代の男子など一撃で射止めてしまうほどの威力をほこっていた。この時になってようやく彩花がばっちりとメイクをきめていることに気づいた。睫毛は曲線をえがきながら上を向き、頬は流行とされているゴールド系のチークシャドーで染まっていた。だれのためのメイクだよ、何の気ない軽口が喉まで出ていたが、寸前のところで飲みこんだ。あの告白以来、気まずくなることをひそかに恐れていた。こちらが受け流していれば、いずれふたりして忘れていくにちがいない。女心と秋空、季節が変わる頃には恋人だってできているだろう。そもそも彩花とはあまりにも年齢がはなれていた。傍から見れば今だって実の親子に見えるだろう。奈央子が彩花を異常なほど可愛がるのはじぶんたちに子がないからだと理解していた。ふたりに子がないのは、どちらの責任でもなく、またどちらかが望んだことでもなかった。

「ああ、ごめんよ。もう終わった?」

「さっきからずっと見てたのにぜんぜん気づいてくれないですもんね」

「そりゃわかんないよ。じゃあ……まぁ、いいか。うん、もういいな。そろそろ時間も時間だし、彩ちゃんにまかないでもつくろうかな」

「え、いいんですか? やったー」

「朝って食べてきた?」

「あー……朝かるく食べてきちゃいましたけど、今ならよゆーで入ります」

雄一と話す時だけ口調が変わってしまうのは自覚していた。ふだんはだれに対しても容姿からの期待を裏切る可愛げない対応しかしないのに、雄一と話す時だけは妙にはしゃいでしまうじぶんがいた。同性の、他人に対して猫をかぶるような言動は自我らしきものが芽生えた時分から嫌悪していたはずだし、高校時代にはそのことを友人に明言もしていた。そもそもファッションやメイクだってうとい方なのに無理をして、すこしでも可愛いとおもってもらえるように努力していた。今朝だって無駄に早起きし、ああでもないこうでもないと身なりをととのえた。徒労だとわかっていた。いかにも「最近の若い娘」らしい女性を雄一が好まないことも知っていた。努力が裏目に出る方向へと舵を切っているのは、だれに言われなくともわかっていた。特定の異性に好かれる努力などしたことがなかったし、する必要もなかった。

定期的に顔を合わせてきたはずなのに一昨年の夏にきっかけもなく恋をしてしまった。何かの間違いだと言い聞かせてきたが恋情はつのるばかりだった。数か月ぶりに顔を合わせれば胸がときめくのをおさえられなかった。下心も隠さず藪から棒に告白してくる同級生にはみじんもおぼえない感情だった。何気ない会話をかさねる今でさえ、ずっとじぶんの言動が気味悪かった。ビンタでもしてやりたい気分だった。雄一にオムレツをつくってもらえることになったにもかかわらず、本心からよろこべない。口から出まかせの、デコレーションしたことばが放たれる。じぶんの唇や舌が別の生き物のように感じられた。この感覚が拡大すれば、もうじぶんの感情で涙を流せなくなる、そんな予感があった。それはそれで楽かもしれない、そうおもったはずなのに何故かふいに涙腺はゆるんだ。バックルームへと下がりかけた雄一は彩花の目元の異変を察知しなかった。彩花にとって、ありがたい事実だった。小窓の枠におさめた輪郭をはずそうとした際、奥のテーブルに座る女性客と目が合った。うつろな視線をフローリングに投げかけるだけの彼女だったはずなのに、生気のある目でしっかりと彩花を見つめていた。その表情はやはり悲しげだった。理由はわからなかった。じぶんが憐憫されているとは想像しなかった。きれいな人、素直にそうおもった。それと同時に雄一が仕事をこなしながら彼女に視線をおくっていたのだと悟った。

キッチンはおもいの外きれいに片づけられていた。ところどころ皿や小物の位置はちがったが、それは教えていないから当然だった。低い作動音でうなりつづける業務用冷蔵庫の下段あけると、振動はよわまり冷気がもれた。一段に四十五個が定数の紙製トレーに規則ただしく並ぶ大玉LLサイズの卵を右手でふたつ握りとった。親指と人差し指の間にひとつ、人差し指と中指の間にひとつはさんだためフォークボールを投げる際の手のかたちとなった。シンクの下にかさねてあるステンレス製のボールの中から中ほどのおおきさのものえらび、冷凍庫や食器台と一体化した調理台の上で手際よく卵を割った。ホイッパーで溶きほぐし、生クリームを少々加え、能登産の天然塩で味をととのえた。その様子を間近で観察する彩花は口角を上げ、わざとらしく鼻歌をうたっていた。すくなくとも工程をおぼえようとしているようには見えなかった。目元がいやにうるおっているようだと感じたが、あくびでもしたのだろうと気にとめなかった。冷蔵庫の上段からバターを手に取り、適当に切りだした。小鍋に残っていたデミグラスソースを小口コンロで火にかけ、水やその他の調味料で味のつまりを調整した。同時に年季がかったオムレツパンをもっとも火力のつよい大口コンロで火にかけた。一度熱くなったところで火からはなし、バターを投入し、菜箸を使いながら縁を舐めまわすようにして八割ほど溶かした。じょじょに緊張高まる作業の中でさえ、ずっと汐里と女性客の関係性について考えていた。もしかして、あなたは汐里さんのご息女ですか? あまりにも奇跡的だが、あり得なくはない仮説だった。それほどの年月がすでに流れていた。かしこまった文句で唐突な質問をぶつける場面まで想像しながら実行にうつす気はさらさらなかった。しかし、いったい何故そうした質問をしてはいけないのだろう? 卵液を一気に流し入れ、パンと菜箸を逆向きに回転させながらスピーディにうごかす。じっさい汐里のことなどずっと忘れていた。夢にさえ見なかったし、顔もうまくおもい出せなかった。それなのにあの女性客が汐里に似ていると気づいてから汐里の姿かたちが頭からはなれなくなった。思い出の中で喜怒哀楽の表情を見せる汐里が愛おしく感じられた。それは決して奈央子に対する裏切りではなかった。そもそも男というのは過去の恋人を記憶の内側で愛でるものだ、そうした傾向に照らせばおれなんてまだまだ可愛いもんだろう……弁明めいたことを考えながらも意識は手元に集中し、火とうまく距離をとっていた。小鍋の火をよわめながら、ほどよく火のとおった卵液をパンの前方に押しやった。底にうす皮ができているため、卵液はなだれのように鉄板の内側をころがった。

手際のよさにことばをうしなって見とれていた。パンの柄を右手でたたくたびに卵液はすこしずつ回転し、ひとつの料理としてきれいにまとまっていく。まくった袖から露出した腕っぷしのたくましさに頬がゆるんだ。すずしい顔で操作するさまはりりしく、焼き目のないタンポポ色のオムレツがパンの上でなめらかにうごくさまは優雅だった。あ、ごめん、どっからでもいいから皿取ってくれる? そう言われて、たどたどしく返事をした。すこしだけ焦ったものの先ほどじぶんで食器棚に並べ入れた白磁の中皿のことをおもい出した。コンロのある位置からぐるりと周り、適当な位置でしゃがんで一枚だけ取りだしてから時計回りに一周してきた。ありがとー、と珍しく語尾を伸ばしながら皿を右手で受け取るとそのまま逆手に持ったパンを近づけ、くるりとかえした。しつこい油よごれや焦げの付着したパンの底面は見てはいけないキッチンの裏側だという気がした。パンがはなれると、皿の中央にきれいなラグビーボール型のオムレツがあらわれた。割れ目のない、見事な楕円球型だった。縁に波線をあしらったシンプルな白磁にオムレツのタンポポ色がよく映えた。卵と生クリームとバターを合わせて加熱するだけで、どうしてこんなものができるのかとふしぎだった。コンロの火はすでに二口とも止まっていた。レードルでデミグラスソースをたっぷりとそそぎ、いつの間にかカップにうつしてあった少量の生クリームをその上からすばやくかけた。もうちょっといる? そう聞かれて、首を横に振った。調理台に置かれた完成品を見て、おもわずため息がもれた。両手は自然とうごき、拍手をしていた。彩花の浮かれた様子を背に雄一はすぐさまシンクへと向かい、発生した洗い物に急いで取りかかっていた。気づいて代わろうとしたが制された。冷めないうちに食べな、おれはホールに出るから、スプーンを手わたしながらほほえむ顔に胸が苦しくなるほどときめいた。これ、写真撮ってもいいですかぁ? 舌足らずな口調で発した声には自覚なしの素直な感情がこもっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 六

 

カウンター奥のバックルームから女の子らしいはしゃぎ声が聞こえた。叫んでいるわけではないし、うるさいとも感じなかったものの、黄色い声と形容するのがぴったりな気がした。声が黄色いと最初に表現した人はきっと共感覚の持ち主だろうと過去の恋人は言っていた。共感覚ということばをその時に初めて知った。声に色が見えるというのは、どういう世界なのだろう? いくら考えてもうまく想像できないことはわかっていたが、それでも脳は何かしらのイメージを得ようと努力している。

やばーい、これ、めっちゃうまいです! たしかにそう聞こえた。やはり声に色はつかなかった。ほんとうに色がついたら日常生活に支障がでることは容易に想像できた。好きな映画も今の感覚では楽しめなくなるだろうし、音楽の好みだって変わってしまうかもしれない。それはそれでありかとおもえたものの、すこしさみしい気もした。じぶんの趣味があまりよくないことは知っていた。だから積極的に好きなものの話をすることはなかった。一郎の好きなものの話を聞くのは好きだった。ふたつも年下なのに知識量はあちらがはるかに上だった。長い髪を耳に掛けて、写真関係の本を読んでいる姿が好きだった。視線に気づいてほほえむ顔も、くっきりとした喉仏に見合う、ざらついた声も好きだった。もし声に色がつくならつくで、ひと声かけてほしいとおもった。

だれに? 一郎くん? 神様?

くだらないことを考えていると奥からマスターが姿をあらわし、そのままカウンターのスイングドアを抜けてホールに出た。一週間前に接合部のビスを締め直したせいでドアのスイングはやたらと速く、ジャブ専用のサンドバッグのように小刻みにゆれた。マスターは手に不織布のダスターを持っており、各テーブルを慣れた手つきで拭いていた。縁をなぞるようにしておおきな四角を三回えがき、そのあと卓球のラリーを行う腕のうごきで三往復する、規格のおなじテーブルは規則ただしくきれいになっていく。マスターのまなざしに今朝挨拶を交わした時のようなおだやかさはなく、職人めいたきびしさがひそんでいた。もはや食堂にはじぶんの以外の客がいないことや、作業の邪魔になっていることは重々理解していたが、一応食事は九時までだと案内されていたし、もし一郎がもどってきた時に何も食べるものがないのは可哀そうだとおもい、一応クロワッサンとズッキーニのポタージュを一人前ずつ用意していた。しかし客観的に見れば今のじぶんの方がよっぽどか可哀そうだった。気づかいのできそうなマスターなんかはこちらの状況をすべて把握した上であえて声をかけないのだろうと予想した。昨日被っていたキャラメル色のサマーニット帽を今日は着用していなかった。白髪交じりの短髪はおなじように白髪のまじった顎鬚と地つづきという感じで、髪も髭もいっしょにととのえているように見えた。ちらちらと様子をうかがっているのには気づいていたが、わざと伏し目がちにして目を合わさないようにした。とうに冷め切ったコーヒーを一口だけすすった。まったく美味しいとは感じなかった。そもそも日ごろからコーヒーをほとんどたしなまないし、こうやっていかにもこだわってますといった雰囲気で提供されるのもあまり好きではなかった。あえて白で統一したであろう飾り気のないコーヒーカップや丸みを帯びたミルクピッチャーが鼻について仕方なかった。

あたっているわけでも、苛立っているわけでもない。椅子に長く座ることも、だれかを待つことにも慣れていた。朝方に目が覚めたのをごまかしてベッドの上でまぶたを閉じつづけることも、隣で一夜を過ごしたはずのぬくもりが無言のまま布団から抜け出していくことも、もうとっくに慣れていた。だからこうやって幸うすそうな暗い雰囲気を醸しだすのはまちがっているとわかっていた。それでもすぐに背筋を伸ばすことができないのは日ごろの疲れが溜まっているせいだとおもった。社会人になってから朝はいつも気だるかった。それは休日でもおなじだった。マグカップ三角錐の紅茶パックを入れ、ティファール電気ケトルで沸かした湯をそそぎ、抽出を待っている時間さえ気だるかった。待っている間は一郎の寝顔や寝相を観察することがおおかった。週の半分、一郎のいない朝は紅茶を飲まず、たいして興味もない民放の情報番組に目をやった。国際情勢や経済のことはいくつになっても理解できなかったし、芸能人の私生活や近日公開の映画や為替と株の値うごきにも興味がなかった。天気予報だけは真剣に観た。占いの結果に一喜一憂するわけではないが、いつ観ても牡羊座の順位が低いのは気になった。それでも通勤電車にゆられて出社するころには忘れているし、忘れていることさえ忘れている日常だった。

カウンター奥の小窓から女の子がマスターの様子をうかがっていた。その満足気な表情を一目見るだけで、マスターに恋をしているのだとわかった。言動に少々無理の見える女の子は慣れない演技と素の部分が相まって非常に可愛らしかったし、ほどよく日焼けしたマスターは鼻筋のとおった男前な顔立ちをしていたが、ふたりの年齢差あるいはロハス志向に見える女将との夫婦仲を考慮すれば叶わぬ恋であることは一目瞭然だった。そんな事実などとっくに折りこみ済みの女の子の口元はまだうごいており、ゆっくりと味わいながら咀嚼している。好きな人につくってもらう料理はきっと美味しいのだろうと想像した。好きな人に料理を本格的な料理をつくってもらったことなど一度もなかったし、つくってもらいたいともおもわなかった。じぶんのつくったものを笑顔で食べてもらえることがうれしかったし、その方が性に合っていると感じた。一郎は何をつくっても美味いと言ってほほえんだが、その反応は一辺倒だったため、どこか味気なかった。罵られるのを趣味とはしないが、時には感情をぶつけてほしかった。上辺だけ、その場限りではなく、気に入らない部分をきちんと責めてほしかった。ぶつけることで図れるコミュニケーションもあるはずだと信じていた。食に限らず反応に関して言えば、そもそも一郎は何に対しても希薄だった。自信というものが決定的に欠けているのだと見抜いていた。一郎はだれよりもやさしかったが、だれよりも傲慢で、身勝手だった。すくなくとも里実の目にはそううつった。趣味は人間観察だと恥ずかしげもなく言えた高校生の時分から人の性格や心情を感知するのは得意だと自負していた。二十歳の時に付き合った自称ラッパーのつよいすすめで入れた左足首のタトゥーに関しても一郎はこれまで一度たりとも言及しなかった。過去の恋人たちや一夜だけの相手は気づけばかならずコメントを残した。かっこいいと褒める者、うわぁキャラに合わないわと非難する者、しつこくキスをする者、左足そのものを持ちあげて足首から下をていねいに舐める者、十人十色の反応を楽しみにしている部分はたしかにあった。

楢の梢とたわむれていた木洩れ日が風の加減で急につよい日射しを里実に向けた。しろいひかりに目を細めたのも束の間、楢の梢と木洩れ日は元のとおり、何事もなかったかのようにひょうひょうとしている。何か、馬鹿にされているような気がして窓の外を険しい目つきでながめた。豪華な刺身盛り合わせのように間隔をもって整備されたちいさな庭園をきちんと観察するのはこれがはじめてだった。上信越自動車道が渋滞したせいで昨日の到着は予定より大幅におくれていたし、ディナーの際にはランプの明かりに演出された非現実的な雰囲気を、だれもが声量に気づかいながら会話しつつも時おり笑いのもれる上品な空間を、反応のうすい一郎にさえ明確なことばで舌つづみを打たせた絶品のジビエやワインを、蜂蜜色に染まるつぶらな瞳を、やさしい目元で笑う一郎の飾らないささやきを堪能する以外に一切の注意が向かなかった。

どの花もおしなべてきれいだったが多彩な鶏頭の、かき氷を想起させるあざやかさが目にとまった。その奥のエントランスアーチに絡みつく羽衣ジャスミンはすでに散っていた。香りのつよい花はどちらかと言えば苦手だった。くたびれた蔦と金属部分の塗装の色合いが似ているせいか、何度目を凝らしてもまとったひとつの物体としかとらえられなかった。その印象は里実に、ながらく忘れていた一丁の鳥籠の存在をおもい出させた。自宅のクローゼットの奥に押しこんだもらい物の、今や無用の長物だった。捨てるにも中途半端なおおきさのせいでただしい分別の仕方はわからなかったし、手数料がかかるとなればなおのこと面倒だとおもい、そのままにしていた。放置して丸三年が経過していた。もうそんなに経ったのか、内心のちいさなおどろきは両目に瑞々しさをあたえ、表情を活き活きとさせた。冷静に振りかえれば一郎との交際を開始してすでに二年以上が経過しているのだから当然だとおもえた。反対に一郎との一夜からすでに二年数カ月も経っていることの方がふしぎにおもえた。その期間で一郎との距離はどれほどちぢまったのだろうか? 何度も感じてきた疑念が胸にきつく食いこんだ。関係の変化だけが実感され、将来が見えないと嘆きたくなった。こんな時、どうして一郎くんはそばにいてくれないんだろう? 

一郎がどこかへ姿をくらますのも今日が初めてというわけではなかった。しばらくして帰ってくることもあったし、そのまま一駅先の下宿先へともどることもあった。休日のこともあれば平日のこともあり、仕事から帰宅したら何食わぬ顔でおかえりと言うこともあった。一度たりとも追及したことはなかった。回数をかさねるうちに一種の夢遊病なのだとおもうようにした。いったいこれ以上何を考えればいいというのだろう? 交際に満足しているか、生活に不満はないか、何か改善してほしい点はないか……もろもろの質問に納得する答えを返したことは一度たりともなかった。まさか旅行先で「発症」するとは予想していなかった。おれは頭おかしいからなぁ、一郎はよくそう言いながら笑った。聞きながしては、暗い気もちになるのを笑顔でごまかした。

夜明け前に一度身体を起こした。念のためレンタカーの鍵をたしかめると、持ってきたトルコ石色のポシェットの内ポケットにしっかり収まっていた。光沢のひかえめなゴールドのファスナーと持ちはこびにちょうどいいサイズがお気に入りの本革製ポシェットは室内灯の白々しい明かりを受け、どこかさみし気に見えた。夏らしい色合いだとおもい一か月前に購入したばかりの一品で、ほとんど使用してないため新品同然だったが、まったく型くずれしていないせいか夏になじんでおらず、かえって季節からはじかれているようだった。

「社会人とフリーターのような大学生とでは生活のリズムがことなるせいで一緒にいられる時間がすくない」。そんな科白は言い訳だと経験則で理解していた。大学生の時分に交際した相手のほとんどは社会人だった。もともとは年上好きで、それは今でも変わっていないと認識している。どちらかというと体育会系で、陽気で、悪い感じのする男性が好みだった。うす暗いクラブやちいさなライブハウスでナンパされるのを待っていれば声などいくらでもかけられた。じぶんの場にそぐわない容姿が逆に目立つこともわかっていた。小じゃれたバーに行くことなどめったになかったが、一郎と再会したあの日はたまたまひとりで飲みたい気分だった。営業先で知り合った二十九歳の、えくぼと八重歯が少年っぽさを醸しだすサラリーマン、社会人になってできた初めてできた「まともな彼氏」に裏切られ、傷心していた。オリジナルカクテルはどれもきつい甘みのせいで中途半端な味だったが、一郎がすすめてくれたゴッドファーザーは美味しかった。

すべてがベタでありきたり、笑ってしまうほどね、そう言いながら三日後の居酒屋で泣いたのを今でもおぼえている。誘ったきっかけは、ただの気晴らしだった。甘えることのできない年下の男子に抱かれる理由なんてどこにもなかった。会計を済ませ、コートを羽織って外に出ると砂埃を巻き上げた風がぴゅーぴゅーと吹き荒れていた。春の嵐や、一郎はぼそっとつぶやいた。最寄り駅まで人どおりのすくないアーケードを流されるようにして歩いた。異物が入らぬようにと目をほそめ一郎を壁にしてすすんだ。手足の長い華奢な身体だとたかをくくっていたら、意外にしっかりした筋肉をしているのだと、酔って腕を絡めた際に気づいた。興奮をおさえながらその旨をつたえると男らしくほほ笑んだのにときめいてしまった。ときめきながら可愛いと感じてしまった。おもわず抱きしめて口づけをした。口づけはあらゆる間違いの発端だと知っていた。付き合っていない人にみずからくちびるをかさねたのは初めてだった。

さまざまな意味で一郎はイレギュラーだった。ゆえに付き合いはじめた当初はとまどうことがおおかった。うまく歩調を合わせられた時には逐一安心し、その安心がしだいに悦びへと変わった。会計の場でじぶんがおおく支払うことにも慣れたし、耳になじみのないモダン・ジャズやブルースの良さもしだいにわかってきた。学生身分の一郎はまだ正社員として働いていないが、いずれそうなってくれればそれですべてが丸くおさまるような気がした。何が? 一郎が無言でうったえるように、それは虚構なのかもしれない。しかし人生において虚構や物語を求めることの何が悪いだろう? 

現実見なさいよ、かつて言われて虫唾が走ったことばを、じぶんの内で押し殺した。働きはじめのきつい時期にはじぶんが先輩として叱咤激励しながら栄養面でもサポートするのだと、師走にはたがいの忙しなさからすれちがいになりつつもクリスマス・イヴに予約した隠れ家風レストランで杯を交わすことで和解するのだと、年末年始にはふたり分のボーナスを奮発して金沢の高級旅館に泊まるのだと妄想を次々とふくらませた。一郎が焦りを見せないことに苛立ちもしたが、それを素直に表現することはなかった。時間を置いた怒りは悲しみへと変わり蓄積し、許容範囲を超えるとヒステリックな涙としてあふれた。一郎はいつも謝罪しながら抱きしめた。髪をなでながら口づけをした。事態をただ収束させるためだけの、適当な対応ではないと表情や態度から読み取った。一郎の真摯な部分を信じなければ、じぶんにつよく言い聞かせた。反対している登山に関しても出発の際には笑顔をつくること、朝方に布団から抜けだして何も持たずにどこかへ消えてしまうのを引きとめないこと、すべてはおなじ心情に起因した身振りだった。いつからか一郎に嫌われることをひどく恐れるようになっていた。向こう見ずに、相手を振りまわすことに躊躇のなかった時代がなつかしかった。感情的でいることが最たる美徳だとおもっていた。今や相手はおろか、おのれの愛情さえ確信できなかった。消せるものなら消したい過去が山ほどあった。まっさらな状態で出会い直しかった。過去なんて見ず、今のじぶんだけを愛してほしかった。

窓の外ではじょじょに風がつよくなっていた。汚れのないおおきな窓ガラスはわずかに振動し、表庭の奥のアーチがかたんかたんと音を立てた。その音は文鳥が籠にふれた際のやかましさに似ていた。もともと飼うつもりもない文鳥をどこかから勝手に引き受け、押しつけてきたのは自称ベーシストの元恋人だった。実家だから自室では飼えないと強気で話すのに対し、つよく責めることもしなかった。じぶんで世話をすると公言していたが、蓋を開けてみれば里実がすべての管理をおこなった。インターネットで情報をあつめたり、知り合いにアドバイスを求めたりと熱心に飼育したものの文鳥に対してはみじんの愛着もなかった。教科書的に二本の止まり木を設置し、ペットショップで購入した混合シードと小松菜や青梗菜などの青菜をあたえた。カルシウム不足を補うためのボレー粉はシードに乗せてもまったく食べなかった。これ高いのに、と恨めし気につぶやいても我関せずのすずしい顔をしていた。晩飯にあまりもののスイカをあげれば、きゅるきゅるーぃと鳴いてよろこんだ。インターネットには「果物の過剰摂取は下痢になるので注意」と書かれていた。検索して見つかる画像や動画の文鳥はどれも体格が立派に見えた。

餌をあたえる際に観察すれば珊瑚色のくちばし、つややかな漆黒の眼、頭部や尾の黒と目元の白とのコントラスト、オパールグレイの羽根、胸から腹にかけてのうすい桃色をすっきりと統合させたうつくしい生物だと感じたり、首をこまかくうごかしてはまぶたをなぞる化粧めいた淡紅を際立たせるさまに可憐さを感じたりもしたが、それ以上の感情が発生することはなかった。眼をぱちくりさせるたび円だった淡紅は糸になり、それがまた円になる、どこを見ているのかは終始わからず、まなざしを交わすこともなかった。

文鳥の飼育に熱を上げたのは恋人の自宅訪問を期待したがゆえだった。安いラブホテルに現地集合現地解散するのはもうこりごりだったし、性交なしのふたりの時間をつくることができればじぶんの愛情をもっとつたえられるはずだと確信していた。その努力の甲斐むなしく、むしろ恋人はそっけなくなった。理由はわからなかった。最近は楽曲制作のためメンバーとスタジオにこもりっぱなしだと聞いていたが、SNSでていねいに検索すればすぐに嘘だとわかった。それからしばらく連絡を避けていると仕事終わりに着信があった。間を置いてから出ると、くぐもった声で別れを告げられた。一切の事情を聞かずに了承し、五分足らずで通話は終わった。文鳥のことは話題にならなかった。

それからも一週間ほど惰性で飼育していた。どうすれば良いのかわからないというのもあったが、文鳥を手放すことですでに連絡先を消した自称ベーシストとの縁が完全になくなってしまうような気がした。踏ん切りをつけるのに一カ月ほどかかるのがじぶんの性格だと理解していた。予定のない休日の昼下がりに近所のコンビニへとちょっとした買い物に出かけていると、自宅である角部屋のベランダから何かが飛び立つのが見えた。まさか、とおもい急いで帰宅すると扉の開いた鳥籠と網戸のわずかなすき間が直線を成していた。きぃきぃときしむ鳥籠の扉は今までになく古びて見えた。網戸を開けて、ベランダに出るもその姿を追うことさえできなかった。六階建ての五階に住んでいるためにそれなりに見晴らしはよかったが、東京では背の高い建物ばかりが目についた。背の高い建物のせいで濃い日陰がいたる場所にできていた。その間をはしゃぎながら行きかう小学生は疲れることを惧れず、わけもなく徒競走をしていた。近所の公園では夏の盛りを前にアブラゼミが狂ったように鳴いていた。来年には風鈴を買おう、ぬるい風が頬をなでるとそうおもった。手に持っていたコンビニのビニール袋からオレンジ味のアイスキャンディーを取りだし、派手なデザインの包装を剥ぎ、とろりと汗をかいたそれに一口かじりついた。かるく溶けていたため、すんなり噛み切れた。室内にもどると部屋の中がいやに暗く感じられた。先週掃除したばかりの換気扇が勢いよく作動していた。おたがい元気にやろう、もごもごとつぶやいたことばは最後に聞いた声だった。冷えた甘さと共に飲みこんだ。

射しこむひかりはしだいにつよくなっていた。しろさを増す景観の中で低く刈られた芝生はいっそうつやめき、花々は強弱をつけながら手をふっている。このちいさな庭園にはこのペンションに対する夫妻の願いがそのまま反映されているようだとおもった。それは逃避行の果てにあるユートピア、すべての旅人を受け入れる桃源郷のようなイメージだった。一郎にこの庭園を見てほしくなった。写真を撮ることなど忘れて、無邪気に堪能してほしかった。

テーブル拭きにいそしむマスターが近づいていた。水気をうっすらふくんだピンクと白のダスターはきれいたたまれ、コーヒーのしみや食べこぼしによるよごれは一切見えなかった。視線を交わすつもりはなかったが、ふとぶつかった。眦につくるふかい皺は昨日見たものとおなじく、もてなしの記号として洗練されていた。純粋に好みの顔だとおもった。少々年がはなれすぎてはいるものの、まっすぐに伸びた背筋や筋肉と恰幅のほどよいバランスは年齢の平均よりはるかに体力があることと示していた。リネンの白シャツからのぞく前腕筋のたくましさにほんのりと胸が高鳴った。今の心情を吐露し、すべてを捨てて甘えたいと衝動にかられた。去ろうとすると背中を何度も呼び止めようとしたが両手をきつく握るだけで、いつまで経ってもことばは出てこなかった。マスターがカウンターへと移動すると、小窓から顔をのぞかせる女の子の凝視に気づいた。敵意はなく、ただ興味関心からまなざしをそそいでいるようだと感じた。視線が合った刹那、わずかに表情がゆらぐさまは里実に小動物を想起させた。たがいをもくもくと観察していたが、里実がおもい出したかのように目元でほほえむと従業員らしいさりげない微笑を口元に浮かべた。演技くささのない、さわやか笑顔に胸の内が晴れていくのを感じた。メイクや所作を工夫せずともその魅力的な笑顔のみを武器にすれば、あのマスターも何かしら想いに応えてくれるはずだと老婆心から声をかけたくなったものの、それも実行されることはなかった。飾ることと飾らないことを二項対立的にとらえるじぶんの思考がどこかおかしくおもえ、決め手に欠けているのではと一抹の不安が脳裏をかすめた。女の子はふいに視線を外すと人形のような顔になり、小窓から姿を消した。ともすれば不快な気分にさせたかと束の間案じたが、そのままバックルームからカウンターへと移動した女の子の表情はおだやかだった。マスターと談笑しつつ荒々しいスイングのドアを抜けてホールへと出た。ふたりの会話は耳まで断片的にとどいたものの、内容を汲むことはできなかった。女の子は窓の外に目をやりながら先ほどのさわやかな微笑を口元に浮かべていた。今日一日へのささやかな期待に満ちた両目はエメラルドのようにきらめいた。しろくやわらかな頬をほのかに染めるゴールドのチークシャドーは里実の持っている品とおなじものだった。睫毛の極端なカールさえいたって自然で、その曲線を強調するゆったりとしたまばたきは横顔に何かしらの黄金比をあたえていた。窓の外からさえずりがふってきた。ちいさな鳥の鳴き声であれば何でも文鳥のそれだと聞こえてしまう時期がながく、今も一郎のようには聞き分けることはできなかった。

積雲が太陽を隠すと食堂内のしずけさと翳りはいやまし、マントルピースに引かれた斜線はうやむやとなった。製氷機や冷房の一時的な作動停止に合わせ空気はわずかにゆらぎ、室内によわい緊張が走った。椅子を引くほどの音でかき消えてしまうよわい緊張ではあったが、従業員ふたりをほんのかすかに落胆させ、里実の口元を引きしめた。扉の開いた入り口付近の壁にかかった鳩時計は八時五十五分過ぎを指していた。ざらめ色をしていた木製のフレームは翳りのせいで小豆色へ変わり、アールヌーヴォー風のふとった分針は明確な位置を示せない。曖昧ではあるものの時刻を知った里美は焦燥にかられた。チェックアウトは九時半からだと言われていた。一郎がいつまで経っても姿を見せないことに不安をおぼえた。まさか事故にでも……今朝、市街地からとおのく方角で乗用車による自損事故があったことは知っていた。衝撃音を聞いたのは食堂へと移動している最中だった。スリッパを鳴らすじぶんの足音がいやにすがすがしくひびく朝の空気を吸いながら、ぼんやりした思考に朝のひかりを浴びせていた。食堂内のなごやかなにぎわいが廊下までもれていた。さほどおおきな音ではなかったため、最初は事故とさえおもわなかった。何らかの必要な作業で出た雑音なのだと違和感なく、むしろ牧歌的なものとしてとらえた。こんな場所で事故など起こるはずがないと無自覚な先入観を持っていた。ゆえに食堂で聞こえる会話や救急車のサイレンにより事故だったと悟るとちいさなおどろきに見舞われたが、乗車員全員が軽傷で済んだらしいと耳にすれば当然だろうと腑に落ちるのを感じた。その一件とは無関係にせよ、一郎が事故に合っているという可能性を今の今まで切り捨てていたじぶんの思考がひどくおろかにおもえた。それでいて一郎に関しては心配するだけ無駄だという経験則から学んだ安堵もたしかにあった。これまで何度拍子抜けを味わい、こみ上げる怒りさえ凌駕する安息におぼれたことか。へたへたと座りこむのも大げさだと脱力をこらえていると一郎はいつも、腹減った? と言いながら携帯電話を操作し、自腹で宅配ピザをたのんだ。マルゲリータのチーズを水牛モッツァレラに変更、好みのカスタマイズをおぼえているのがうれしく、それでいて小憎らしかった。けど、旅行先で「発症」することなんてなかったし、それに時間だってわかってるはずだろうし……急速にせばまる不安と期待の狭間で焦れ、膝に置いた両手は礫のように固くなった。最高の予想も最低の予想も、じっさいの結果とは無残なまでほどとおいというのも経験則から学んでいた。もしかすると一郎はとっくに部屋へともどって何食わぬ顔で準備をしているのかもしれない。他の客が食堂を出た際の喧噪にまぎれてエントランスを抜け、フロントを横切っていたのかもしれない。エントランスは注意深く見ていたつもりだが、見落としの可能性も多分にあり得た。一郎に朝食を食べる習慣がないことをおもい起こせば、確信的な事実のようにさえ感じられた。突発的に席を立つと、かるく立ちくらみがした。翳りの中で目まいを起こした視界は数瞬、さらに暗さを増したが、すぐに常体へともどった。手つかずのクロワッサンとズッキーニのポタージュが申し訳なかったものの、一度立ちあがってから手を付けるのもちがうと感じた。心身のぎこちなさを悟られぬようゆっくりと退席の準備をととのえた。一歩踏みしめると、一切の身うごきなしで映画を鑑賞し終えたあとのような全身の硬直を感じた。ずいぶんと長く席についていたのだとあらためておもった。わずかにのこったコーヒーが押した椅子の振動でささやかに波打った。この極端な硬直はコーヒーのせいかもしれない、そう感じたが確証はなかった。

ありがとうございました、数歩すすんだところで女の子が微笑をたたえながら頭を下げた。おもっていたより身長は低く、里実と比べれば一〇センチメートル以上の差があった。はきはきとした口調で、背筋を伸ばしてことばを放つさまはずいぶんと大人びて見えた。頭のかたちのよさを誇示するかのように高い位置でくくられたポニーテールはたわわに実った葡萄を連想させた。ネイビーのバナナクリップはこのペンションの雰囲気にそぐわないものの、ふだん使いなら重宝するだろうとおもえた。無理してほほえむじぶんの顔がひきつっているような気がした。ごちそうさまでした、と覇気のない会釈してとおりすぎれば、カウンターから入り口との中間まで移動したマスターが手を前に組んで立っていた。もてなしの記号をしたがえたまなざしは里実の顔をじっととらえていた。貪欲な、それでいて自制された観察は目の前の表情からありとあらゆる情報を読み取ろうとしていた。それは表情の持ち主にマスターの顔面から観察への熱意以外を読み取らせない形相だった。口元には作為的な笑みが張りついており、力づよい目元の生物的な印象と対になっていた。何かことばをこらえているようにもうつったが、里実が距離をちぢめると平素の低い声で話しはじめた。

「ありがとうございました」

「あ、いえいえ、ごちそうさまでした。長居した上に残してしまってすみません」

一度足を止め、会釈よりふかく頭を下げた。こころの底からの謝意だった。背後では女の子がじぶんの使用した席を片づけていると音や気配から察していた。

「いえいえ、気になさらないでください。チェックアウトもどうぞ慌てずにごゆっくり」

そう告げるマスターの瞳に悲哀と親愛が浮かぶのを見て、おもわず返すことばをうしなった。何故この人はこんな顔でわたしを見つめるのだろう? ほんとうは何か知っているのだろうか? 紋切型を交互に提示するだけのやりとりが不自然に詰まったことで、妙な沈黙が生まれようとしていた。いや、すでに生じていたのかもしれないが、それを打ち消すように里実は口をひらいた。

「すみません。ありがとうございます。ごちそうさまでした。」

三種の神器のように便利なことばを三つ並べ、それぞれに感情をこめた。ふたたび頭を下げ、歩きはじめたところで唐突に鳩時計が鳴った。時計との距離が近かったため、その音の大きさにおどろいた。鳴き声は現実のものとあまり似ていなかったが、六の真下に設けられた扉から羽根を広げた姿を見せ、一定の速度で前後に移動する白鳩は精巧につくられていた。ひと回りちいさな四枚の脇扉から飛びだす軍楽隊風の人形は可愛らしく、鳩と同じ速度で手をうごかしたり前後左右に身体をふったりした。どの人形もところどころニスが剥げているせいで色褪せていた。内蔵されたオルゴールの奏でるメロディが前回とことなることには気づいたが、前回と同様曲目は知らなかった。みじかい曲が終わるころには入り口へと近づいていた。ひらいた扉の向こうからフロントデスクとエントランスホールが見えた。照明はあったもののやはり翳りのせいで印象はおおきく変わり、空間そのものが喪服を着ているように見えた。大理石のたたきに玄関扉の窓のかたちをしたひかりが落ちていた。枠で区切られた四つのひかりは姿鏡状にながく伸びており、映りこんだ木洩れ日や庭園の影がささやかにゆれていた。突き当たりの廊下の奥の窓から咲いている向日葵の背中が見えた。等間隔で一列に並んではゆれ、駐車場の方向をながめている。こんな避暑地では夏枯れもしないのか……自宅近辺でしなびた向日葵や朝顔に想いを馳せた。風になびいても芯のぶれない花々は里実の目にうつくしくうつった。一郎に再会したら一発殴ってやろう、そう胸に決めながら敷居をまたぎ、スリッパを高く鳴らした。特別力をこめたわけではないが、小気味よくひびいたそれをうれしく感じた。再会をうたがう余地はどこにもなかった。

ゆったりと歩をすすめながら向日葵の様子をながめていると、横方で玄関扉の開く音がした。窓から落ちたひかりは消え、やわらかな風と共にほのかなラベンダーの香りが鼻孔をついた。いつからか耳にしていた小鳥のさえずりがずいぶんと近くで聞こえた。