2021/2/6

今日はジョギングして、かるく筋トレして、シャワーを浴びてから大田区の図書館に行った。ほんとうは川崎市中原区の図書館の方が近いが武蔵小杉駅や商業施設の付近という場所柄さわがしかろう、空席もなかろうと考え、事前に回避した。家で大田区の図書館を検索したところ、古めかしくいかにも地元民のみが利用しそうな雰囲気であり、かつて東村山市に住んでいた時分に利用していた東村山市図書館をかさね、すでになつかしい気もちになっていた。

自転車で移動した。手袋をなくしてしまったせいで手だけが寒かった。土曜日ということもあり多摩川の河原は休日らしい賑わいをみせていた。それはジョギングの時点でもそうだったが、さらに人はふえていた。

図書館は想像通りの雰囲気だった。最後の上り坂がきつかった。利用者は想像より多かったが、席は空いていたので助かった。久々にベンヤミン柴崎友香の著作に目を通した。ベンヤミンは好きだと、よくおもってしまう。矛盾とユーモアと意地と妄念の混じった、それでいて孤独でいようとするスタイルにすごく惹かれてしまう。どれも切りのいいところまで読んで持参した料理や日本酒にまつわる本に目を通した。

途中、昨日Wさんからいただいた出張料理とも仕出しとも言えない案件について思索をめぐらせ、メモを取った。やりたいこと、やれることを考えるのはもちろんだが、満足してもらうためにはどうしたらいいだろうと頭を悩ませた。せっかく現地で料理ができるわけだから、そこでの演出はかましたいし、かますべきだろうとおもえた。せっかくなので勉強になる仕事をしたい。おそらく何をやっても勉強にはなるんだろうが、悩んで創意工夫してだした料理の方がじぶんも後悔なく納得できる気はしている。

 

料理関係の作業に一区切りがついたところで、文學界の三月号を読みはじめた。オードリー若林と國分巧一郎の対談が目当てだったので、その記事とそのすぐ後に記載されていたDJ松永のエッセイだけ読んだ。雑誌を買う習慣はないが、すごく好ましくおもっていると読むたびにおもう。料理系のそれやユリイカなどは家に何冊かある。雑誌の、異質のものが寄せ集められ一つの態を成している感じが好きなんだろうか。

久々に料理にまつわるもの以外の文章にふれ、とても豊かな気分になっていた。じぶんの好きなタイミングで好きな知識を得られることが幸せだとおもえた。同時に、本当のところじぶんは何がしたいのだろうか、どうやって生きたいのだろうかと考えてしまった。立ち止まって物事を考えた、という気がした。こわくはなかったし、つらい気もちにもならなかったが、なつかしい感覚だと感じた。こういうふうに考えることを久しくやめていたのだと気づいた。豊かな気分はまだつづいていた。

 

スマートフォンの充電がほとんどなくなったので、読み終わりをきっかけに帰路につくことした。外は夕景だった。人出はまだおおく、多摩川の河原では球技やよくわからない遊びに興じたり、石段でだべって会話したりしていた。中には孤独にたそがれたり、ひとりジョギングで汗を流したりする人もいた。ユニフォーム姿の少年たちが野球道具を背負いながら自転車に乗り、列をなして走っていた。みんな楽しそうだった。川面は夕陽に照らされて、きらきらと輝いていた、冬場の澄んだ水流はまだ青さをのこしていた。すごくうつくしい光景だとおもった。何もかもが感動的で、休日らしいおだやかな雰囲気をまとっていた。木々の影が長く伸び、フットサルに明け暮れる若者が大きな声を出していた。その声の大きさを、だれもがゆるしていた。視線の先にある二子玉川のビル群や、さらにその奥の山々がまぶしさの中でもはっきりと見えた。

 

帰宅直前、さみしくなったのは、このうつくしさや感動をだれとも共有することができないからだとおもった。だれかとすごく語らいたかった。社会の構造につよい不平や疑問を持たず、新自由主義や資本主義の中でたくましく前進しようとする人たちに囲まれて、それが当たり前だとおもってしまっていたなと振り返った。今日の気もちも、また働き始めたら忘れて群れに紛れて前進していくんだろうなとおもった。それは悲しいことではない。今日はきっとじぶんにとって息継ぎのような日だったんだろう。吸って、また潜っていく。

 

陽の沈んだ暗い部屋で、今こうして画面の明かりだけで文章を書いている。Yからもらったハーブティーを飲んでいる。