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Wさんから長文の返信が来た。
それに返信をして、またそれに対しての返信もあった。
いろいろと、すこしずつ整理ができているとのこと。
こちらにむけての感謝のことばもあった。
人生に絶望して死にたくなる気持ちは過去につよく味わったので、あれはすごく辛いよなという点では共感できるし寄り添える。けれど、それ以上のことはじぶんにはできない。
結局、時間と己の些細な心持ちの変化が解決するのを待つしかない。
結果、解決も解消もしないのかもしれない。
釣りみたいなものだ。釣れない時間もまた釣りなのだ。
どちらにせよ今は時間に委ねてほしい。死にたくなったら、また連絡してほしい。電話も付き合うから。
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人生や自分の性質に悩む友人に対して。
LINEでの何度かのやり取りを経て。
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ある程度、生きる意味を他人に委ねたほうがぼくは楽になると思うんですよね。
これは無責任なんですが、その無責任からはじめて責任が生まれるというか。
家族的なつながりって、基本的に偶然性に満ちているのに、それにやたらとか引っ張られるというか。
強そうで脆いし、弱そうで硬かったりするものだと思うんですよね。
そういうものをぼくとしてはWさんに諦めてほしくないですね。
ぼくはWさんを欠陥品と思わないし、Wさんの優しさや善意にも触れてきました。
あれらはぼくの勘違いで、Wさんの利己性からでたものをたまたまぼくがそう受け取っただけかもしれないけど、それを嬉しく思ったんですよね。
人は見たいようにしかモノを見ないし、世界に事実はなくて解釈しかないのかもしれない。
でもそれゆえに人間は他人を諦められないし、いまや社会から真に離れることはできないとぼくは思います。
Wさんのもっている社会性は一時的に損なわれたとしても、また違った形で変奏できるはずです。
結局ぼくらはたまたま人間に生まれただけで、今のような歪に積み重なった社会でうまく生きることの方が難しいんだと思います。
......
こうしたWさんたちの苦しみに対して、どうこう言える言葉をぼくは持っていないです。
一点言えるのは、もし仮に家族的なつながりをWさんが持ったとして、そこに対して根本的な責任をWさんは負う必要がないということです。
何故なら責任というのは、どこまでいっても仮初のものでしかないからです。
だから難しいのだとしても、失敗したのだとしても、それは別の形でやり直せばいいだけなのではないかと思います。
辛くても、何度でも何度でもやり直すしかない。
そのどこかのつながりの中で渡辺さんが心地よい「責任」を持ち、楽になれる瞬間があると思うんですよね。
一般的な解釈とは別として、責任という概念をもっと自由に自分を縛る言葉、ライトなディシプリンとして機能させられるとぼくは考えています。
彼のを死を自分への宿題、としているのはぼくからするとちょっとナラティブ強すぎるというか、物語的に捉えすぎているとも率直に思います。厳しく響いたら申し訳ないです汗
シンプルに。とてもシンプルに。人は死にます。自死だろうと事故だろうと。
死に対して悼み、喪に服すのは生きている人間が生きていくためにする行為です。
死は物語じゃない。出来事です。そこに強さも弱さもない。原理的に死は不条理で、平等です。Wさんが何が引き受ける必要はまったくないです。
死に対して、何か引き受ける。伝承というのは昔から取られてきた形式であり、物語です。
非常に強い構造ですが、これもぼくは仮初だと思う。
そこに負けないでほしいです。
我々はどこまでいっても孤独で、理解し合えないです。
ただ誰かと重ねた手のひらが温かいように、存在同士が被りあったり重なりあったりすることはできます。
その温もりは絶対にあるはずだし、善人であれ悪人であれ万人にとって必要なものだと思います。
これに対して返信なし。自分はどう寄り添うべきだったのだろうか。
うーん、病んでいる時って人の言葉入ってこないからなぁ。ただ、だからといって適当なことは言いたくないという自分の性分はある。
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誰にむけてか――おそらく自分にむけて。そう書きながら、これをこの場で書くことに欺瞞がある。
自分の書いた過去に記事をざっと読んで、やはりすすんでいるのかすすんでいないかよくわからない日々を過ごしているとおもう。
今は明寂という名の知れた日本料理屋で働いている。最後の修行先と決めて働き始めてもうすぐ二年だ。その二年を節目にして、退職する。退職後には自分で店をやる予定ではいる。なかなか物件が決まらず、ちょっとブルーになったり、そこから立ち直ったりしている。そんな日々だ。
明寂の大将は、自分が今まで見てきた中で最高の料理人だ。知識、技術、感性、どれも本当にすごいと思う。自分は絶対にこうなれない、と直感的にわかる。絶対に、こうはなれない。そもそも歩んできた道が違いすぎる。自分なんかと比べること自体がおこがましい。それでも、自分で店をやりたいという気持ちはこの二年間で消えなかった。
世界にはこんなに素晴らしい作品があるのに、何故あなたはそれでも創作しようとするのか?
これはジャンル問わず、何かしらの創作を志す者には付きまとう問答だとおもう。
自分はそれに対して、ずっと社会性を湛えた答えを欲しがっている。提示したがっている。
エゴイズムに端を発しつつ、それがしっかりと実社会への貢献へと結びつくことを強く願っている。子を成すつもりのない人生で、何かを為すことで自分の人生を意義を与えようとしている。
勉強がてら建築関連の書物を読んでいると、建築家という職業がとても羨ましくなる。
この二年で器にはかなり詳しくなった。あと、阿呆みたいに買っているので家に置くスペースが無くなってきている。
今年に入って茶も習い始めた。裏千家。茶道を通して学ぶ精神性や知見は、これからの自分に活かされるだろうという確信はある。
今年は、夏目漱石は改めて凄いと知った一年でもある。また、柄谷行人が凄いと改めて実感した一年でもある。
先週、昨年の研修ぶりに京丹後へと足を運んだ。二度目の京丹後はとても楽しかった。比沼麻奈為神社と眞名井神社はとてつもなく力を感じた。普段、まったくスピっている人間ではないが、特に比沼麻奈為神社では明らかな空気の違いを感じた。人の思い・祈りの集積した力というのはたしかにあるのではないかと今はおもうようになった。祈りそのものが神をかたどり、かたどられたがゆえに神は本質的に不自由だ。
田舎に行くと、田舎が好きだと実感せざるを得ない。というより、東京がいつまで経っても好きになれない。その好きになれない東京で独立しようとしている。ため息が出そうな営みだ。
いずれ、かならず東京は抜け出す。先の先の先に、希望はある。
36歳にして、私はまだ何者でもない。