……さて、ところで。雨が降っている。三月の雨は砂ぼこりと花粉を一時的にやわらげるが、やがて雨雲が去れば春の嵐と化して大気をさらに狂わせる。ぼくに言わせればそんなのは茶番だ。ぼくは例の家の近くのコンビニエンスストアでカヤマをふたたびう見かけた。彼はぼくことなどまるで気にもせず、いつもどおりの業務態度でぼーっとしていた。それが心底うれしかった。互いがマスクをしていることなど、ぼくはぜんぜん関係ないとおもった。

 

みゃーちの話題にふれないことを不自然だとおもうかもしれないが、ぼくがこの文章内で彼女について書き散らすことはきわめて不自然だと言わざるを得ない。何故なら彼女とぼくの関係において、書くことなどひとつもないのだ。彼女はぼくとちがい働き者で、家に帰ると食事や風呂をさっさとすまし、床についてしまうのだ。もちろんそこに夫婦の会話はある。嘘ではない。彼女はきわめて健全で、この社会の労働者の大半がそうであるようにひどく疲れている。つい最近まではぼくそうした疲れた労働者のひとりだった。それは紛れもない事実だ。ぼくはどうやってこの強い束縛から解放されたのか。それはただの偶然だったし、まるで望んだ結果ではなかった。ああ、ぼくはどうしてこうも能天気なんだろう! もしこの態度に疑問を持つ読者がいるのならば、ぼくは即座にハラキリしないといけないだろう。この覚悟を馬鹿にされたらぼくは憤慨するだろうか。おそらくぼくはだれよりも早く笑い出し、そのやかましさやかん高さに皆が辟易とするにちがいない。ぼくは自分自身をブリキのおもちゃのように感じ、実際そのように扱っている。つまりぼくは、ぼく以外のだれにもぼくをおもちゃにしてほしくないのだ。みゃーちはぼくを憐れみながら愛している。憐れむこと、愛すことを両立できるのは才能だとおもう。ぼくにそれはできない。だからぼくは彼女を尊敬している。彼女は決してぼくを尊敬などしないだろう。わからない。だが、ぼくはそんなのまっぴらだと宣言しておく。

 

雨が降った日、みゃーちはひどくおびえて帰ってきた。許しがたい、看過しがたい何事かが起こったことは明白だった。仕事用のスプリングコートを着た彼女の肩はぬれ、顔を鬼のように青くしてふるえていた。ぼくは一度つよく抱きしめたあと入浴をうながした。もちろんあらかじめ風呂には湯を張っておいた。そんな要領の良さは褒めるに値しない。ぼくは先に話を聞くべきだっただろうか。それとも入浴を共にすべきだったか。ぼくはとりあえず彼女の服を順に脱がし、風呂場へと誘導した。彼女の顔色はますます蒼白で、ぼくは焦ったがすべてを手際よく敢行した。彼女が風呂に入ってからしばらくすると浴室のTVが起動したのを耳で確認した。さらには鼻歌が聞こえてきた。ところで彼女は何故いつも鼻歌しかうたわないのだろうか。直接たずねるにはくだらなさすぎるし、逆に意味深すぎるようにおもえる。彼女はスピッツが好きな、猫のようなひとだ。猫になりたい、そううたうにはぼくはもう歳をかさねすぎた。

 

疑わしきは罰する、そう告げられて丸刈りにされた高校時代からもう二十年が過ぎようとしている。本当はまだ二十年にはほどとおいが、四捨五入は古くから使用されてきた誇張表現だ。誇張の氾濫した、誇張にまみれた世間で一切の誇張をしないことは美徳だろうか。水清ければ魚棲まず、という故事の真意を知る人はどれくらいいるのだろうか。もちろんぼくは知らない。恥ともおもわない。恥ずべきは蕎麦屋のタナカのような人間だ。あれはもう本当にひどい。これから述べることは誹謗中傷ではない。しかも個人の尊厳を傷つけるものでもない。その理由は以下の文章の中でおのずと明らかになるだろう。ああ、ぼくはどうしてこうも挑発的につづってしまうのだろう。これはぼくの悪徳に満ちた先天的性質に他ならないし、ある意味タナカの後天的特性とおもわれる邪悪さと対をなすと考えられる。どちらにせよ他人が干渉できる事柄ではないのだ。ゆえにぼくとタナカは水と油なのだ。タナカはやたらとぼくをからかってくる。初めて会ったとき、ぼくは彼の務める店に客として足を運んだのだ。みゃーちも同席していたし、他にも客がいる中でホール業務を担当していた彼はテーブル席に座ったぼくの足を容赦なく、虫を駆逐するかの如く踏みつけたのだ。ぼくはおどろいて彼の眼を見たが、仮面のようなほほえみをたたえた顔をぼくに向け、さらにその足に力をこめた。注文はいかがされますか、と平然と聞かれたぼくはかるく(本当にかるく)どもりながら、きつね! と叫んでしまった。その声はたしかに店内をこだました。だれもが意表をつかれたいかつい顔をしていた。ただ、タナカ一人をのぞいて。あの店には何故BGMが流れていなかったのだろう。モダンジャズなど打ってつけのこじゃれた雰囲気ではなかったか? もしかすると普段は流れているのかもしれない。そうだとすればタナカの仕組んだ罠だということは火を見るより明らかだ。わからない。ぼくはあの店には二度と足を運ばないだろうから。ちいさな静寂のさなか口火を切ったのはタナカだった。

「はい? うちはきつねやってないんですよ。すいませんね。たぬきならありますけど」

突き放された言い方をされるとかえって丁寧に接したくなるのがぼくという人間だ。提案を受け入れ、たぬきそばを注文した。また勧められるがままに大盛にしてしまった。追加料金の案内はなかったとここにしるしておく。ちなみにみゃーちは鴨そばを頼んでいた。彼女は無類の鴨好きなのだ。ぼくは彼女の何かをすする姿を非常に好ましくおもっているのだが、話がずれそうなので割愛しよう。数分後、鴨そばに遅れてたぬきそばが運ばれてきた。その瞬間、ぼくは怒りと焦りの混じった激しさに飲み込まれてしまった。たぬきそばは冷製だったのだ! ああ、おもい返しても腹立たしい! たしかにあの時は新そばの時期で、まだほんのりと暑さののこる日がつづいていたが、きつねを頼もうとした流れがあってたぬきとなれば当然温製が来るものだとおもうだろう。ぼくはとっさに振り向いてタナカを見て目で困惑をうったえたが、彼はぼくの視線に気づきつつも鏡のような冷たいまなざしを返すだけだった。彼は明らかに冷笑していた。ぼくは妙な恥ずかしさからか汗ばんでしまった。そうなれば目の前の冷やしたぬきは表面上の違和感を消してしまう。それはまずいとおもうほど汗ばんでしまうのは、嘘がつけないタイプのあるあるではないか? ぼくは何度もタナカを目で訴えながらも、早くこの場で事なきを得て退店したいと考えていた。迷いながらも、ええいままよといざ勢いよくすすり始めてしまえば、冷えているぶん食べやすく、するすると麺を吸い込むことが可能なため早々に食べ終わってしまった。その間もタナカには視線を送っていたが、彼は一度もこちらに近づくことはなく、とっくに清掃済みのテーブルを念入りに拭きあげていた。食べ終えたあとに文句を言うことはさすがにできないと視線を目の前の向けると、みゃーちはまだ鴨そばをゆっくりとすすっていた。率直に言って、ぼくは参ってしまった(ところで、鴨そばはきつねやたぬきとちがって何のひねりもなくそのままの食材を使用しているが、それは鴨肉が非常に魅力的な食材であることの証拠だろう。事実、鴨肉を好む人間はだれもが「鴨」という漢字のフォルムにさえ好意を抱いてしまうが、それはまた漢字が表記文字としてひとつの完成形に達したことの証拠である。ここで証拠を並べることは探偵のようにタナカの邪悪さを追い込んでいる)。彼女の頬張る姿に感心する愛情と、ここを早く出て外の空気を吸いたいという欲求が相反するのを感じたからだ。ことぼくに関しては愛情と欲求が相反することはめったにない。これはじぶんだけを特別視する傲慢な態度か? いや、そうではないはずだ。ぼくはみゃーちのタイミングを見計らって丼をやさしくうばうとそのまま鴨そばの麺や具はおろか、汁までたいらげた。彼女はやさしくほほえんでいた。ぼくはそれですっかり元気を取り戻してしまった。他者に向けられた邪悪さを払うのはいつだって純粋な愛情なのだ。それはもちろん互いから発されていることを前提としている。そうでなければ、ぼくのような人間の愛情はカルトになってしまうだろう。おっと、これは余計なことかもしれない。とにかくぼくたちは会計をすませて外にでた。タナカはレジ対応もぶしつけで、ひどく無礼だった。何故加害者は事態が変容するといつも被害者の顔をするのだろう。ぼくは何度も口を開きかけたが、具体的に何を言うか決まっていなかった。ぼくたちは目の前の相手に互いに口をつぐんでしまったのだ。それは永遠につづくあいこのようなものだった。夕暮れ時に入店したが、退店時にはすっかり夜の帳が下りていた。ぼくの頼んだたぬきそばが大盛分プラスで三百円とられているのに気づいたのはしばらくしてからだった。ぼくは社会にひそむ邪悪さと出会ったとき、いつもみゃーちに感謝する。彼女のすこしだけ荒れた唇は本当に奇跡のようだ。今、窓枠をゆらす風の向こうでは下弦の月が音もなく浮かんでいる。……

 

 

実家に帰っている。明日の夜には東京に戻る予定だ。昔のくるりとかサカナクションをずっと聴いていた。

働き始めが早まり、明後日からになった。頑張らないとね。

大学のアルバイト時代の知り合い? 友人? と久々に会ったのが三日前。二人とも色々あって、悩んだり楽しんだりしていた。久々に会った人たちと話すと調子が狂い、精神が乱れるのは、他人に合わせてかぶる仮面のチューニングが完全にずれてしまうからだと思う。自分のよわさや嫉妬心を久々に実感せざるをえない。眠れない夜になりそうだ。